ホットキス
びっくりしたあたしは、三回、目を開いて、閉じた。
目の前には、あたしよりも驚いた、先生の、顔。
顔が近づいたのは、偶然で。
そこは人気の無い科学準備室で。
先生とあたしは二人きりで。
少し開いた窓から差し込んだ隙間風に飛ばされたプリントを、二人同時に拾い上げようとしたとき、ふと顔を上げたら、すごい至近距離に先生の顔があるな、と思った。
次の、瞬間。
「……先生?」
いま、キスした?
「あ……っと、う……っ、そ、の、うわわ?」
先生は、普段見ないような慌てた顔で立ち上がって、あんまり動揺したのか寄りかかろうとしたイスをひっくり返した。
がたたたたんっ
「うわ、す、すまん」
倒れたイスを元に戻そうと、しゃがみこんで机に肘を突いたら、机の上の書類までバサバサ落っこちる。
「うぉ!?」
なんだ、これ。
あたしのファーストキス?
「……先生?」
もう一度呼んだら、書類を拾い上げてた先生が、びくっと肩を揺らして顔だけこっちに向けた。
「……う……その、ごめん」
「なんで謝るんですか」
「……うぅ……」
先生は何故かあたしの前でいつも挙動不審だ。
話しかけるとへんにどもるし、赤くなるし。気づくといつもこっち見てるみたいだし。
廊下で男の子とはしゃぎながら先生の前を横切ったら、注意されるかなーと思ってたのに、先生は泣きそうな顔でこっち見てた。
でももしかしたらただの自意識過剰かも? なんて思っていたところ、
『あいつって絶対お前の事好きだよなー』
肩を落としてしょんぼりしている先生の後姿を見ながら、男の子は笑って言った。
まだ、実感が湧かない。
まるで夢の中の出来事を見てるみたいで、緊張感もドキドキも無くて、ただ頭はぼうっとして、体温が高いのが分かる。
「……うぅ……」
「なんで、キスしたんですか?」
なんとなく、分かってるのに、聞いてみる。聞かないと、気がすまない。
「!」
先生はマンガみたいにのけぞって机の角に頭をぶつけた。
「ご、ごめん……っ!」
「なんで謝るんですか」
「その……つい」
つい?
「つい……」
先生の言葉の、後が続かない。……それだけなの?
「つい、ですか」
「いや……っ、その」
何か言葉を探してる、先生の、くちびるの動き。
急に、生々しく感触が蘇った。柔らかくて暖かい、伝わった体温。先生の体温。
「……これって、セクハラ?」
困った顔の先生を見ていたら……なんだか、イラつく。心臓がヘンに痛んで、ざわざわした。困った顔が、気に入らない。
「皆に、言ったらどうなるの?」
先生は困った顔のまま、まつげの長いつぶらな瞳を何度か瞬かせた。
「……クビ、だろな」
他人事みたいに。
「クビかぁ……」
はぁ……っ、と大きくため息ついて肩を落として、うなだれた。ぺったり床に座り込んで、大の大人が何してるんだろ。
「そっか……クビか」
まるでクビ決定したみたいに。
「ちょ、ちょっと、先生!? まだ皆に言うとは言ってませんよ?」
クビ決定して、安心したみたいに呟かないでよ。
「え?」
先生はきょとんとしてあたしを見上げた。
「言わないのか?」
「……。言って欲しいんですか」
「……」
見つめ合っていたら、また隙間風がひょうっと音を立てて頬を撫でた。
「それも、いいかと思って」
「え」
「……」
「だ、だって、しょ、証拠も無いのに?」
「……。あ、そっか。……じゃあ、言わないのか?」
何これ。開き直ってるわけ?
また、イライラが込み上げる。
「……俺、こんなこと突然言ったら驚くかも知れないけど……」
先生は急に真顔になって、さっきから赤くなってた顔をさらに赤くして、立ち上がった。それまで見下ろしてた先生の顔が、急に高い位置になって、見下ろされる。
「……その」
良く見ると、先生の足は震えていた。
手も、ぎこちなく、意味も無く、握ったり閉じたり、顔を触ったり、髪を触ったり。
「……えー、なんだ、その」
言いたいことは、たぶん、もう、知ってる。
それなのにあたしは、先生の緊張が伝わったみたいに急にどきどきして、ざっと全身に汗をかいた。
「え……と」
くちびるが、動く。また蘇る、さっきの感触。
「……俺は、その、お前の事……。生徒としてじゃなくて……その、異性として」
くちびるが、動く。
「好き、なんだ」
ああ、やっぱり……。
「……」
あたしはただ黙ってぼんやりと先生の顔を眺めていた。人のよさそうな顔。悪いことできないんだろうなぁっていう、おっとりした表情に、少しあどけない、輪郭。
「……」
沈黙が続いて、先生はいつの間にか泣き出しそうに不安げな表情になっていた。
「ご、ごめん……。俺みたいな教師、クビになった方がいいよな、だよな、やっぱりな……」
だんだんボソボソ声になって、しょんぼりしてしまう。
あたしは、ただぼんやりしてただけだったのに。……慌ててしまった。
「あ、ううん! 辞めないでよ。気にしてないから!」
「え」
「あ、その……キスの事」
「……」
先生は呆けたみたいにあたしをじっと見てる。
「先生? あたし……別に、嫌じゃないですから」
「え」
「嫌じゃ、ないです。……だから、誰にも言いません」
「え、それって……」
心臓が、信じられないくらいに早く強く脈打っていた。手の平までじっとり汗ばんで、あたしはヨロヨロしながら準備室の出口まで辿り着いて扉に手を掛けた。
「失礼しました!」
早口にそれだけ言って、ほうっと大きくため息つきながら、後ろでに扉を閉め……
ばん!
「……っ!!」
柔らかいものが扉に挟まる嫌な感触がして、振り返ると、扉の隙間から先生の涙目と、挟まった指が目に入った。
「あの、だ、誰も居ない?」
「えっ?」
「そっち……」
あたしは人形みたいに周りをきょろきょろ見回して、廊下に人気が無いのを確認すると、大きく二回、うなずいた。
「付き合って……」
「……」
「できれば、内緒で……」
挟まってた手を引き抜いて、顔の前に立てて拝んでる。
その仕草が可笑しくて、どきどきして、ほっぺたが痛くなるまで笑ってしまった。
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