色の



「隆文……?」

 椿はそわそわと端近まで身を乗り出して、そこに控えた女房とはちあわせた。

「あ、あら、丹後(たんご)……」

 椿はかぁっと耳まで赤く染め、慌てて扇を開いて顔を隠した。はしたなく端近にまでより、間違えて夫の名を呼んでしまうなど、とんだ失態である。

 丹後は、幼いころから椿や安芸の面倒を見てくれている右大臣家の古参の女房で、椿にとっては近しい間柄の女房ではあるのだが、やはり気心の知れた幼馴染の安芸とは違って、なにか余計に恥ずかしい。

 丹後は大笑いしたいのをこらえるように肩を揺らしながら、微笑んだ。

「隆文さん……隆文様なら、今夜は寝殿のほうへお通しされて、もてなされますわ。もうすぐ、こちらへいらっしゃいます。ふふ、もう姫さまの正式な婿君なのですものね。お殿様(右大臣)がお出迎えされてますわよ」

「ま、まぁ……」

 二年前まで、隆文はこの家の家司(けいし:執事・事務官のようなもの)として勤めていた。それが、今では椿の夫として、正面から迎えられる立場となったのだ。

「隆文さんたら、すごく困られたご様子で……ふふふ、それがまた悩ましげで麗しくて。若い女房達が騒ぐのも、無理ありませんわねぇ。誰にもなびかなかったあの方が、まさかまさかこの姫さまを得られるとは……誰も予想だにしませんでしたのよ。さぞやご苦労もされたんでしょうけど……これでまたこのお邸での人気もうなぎ登りですわ。いえ、今やお邸どころか都中で噂の的でしたわねぇ」

 椿は扇で顔を隠したまま真っ赤になってうつむいている。椿と隆文の身分違いの恋は、都中のロマンチストな貴婦人達の間で、奇跡の純愛物語として好奇の対象となっているのだ。もともと隆文は美しい蔵人(くろうど)で、宮中の女房達の間でも人気が高かったから、その恋愛話ともなれば噂にのぼって当然、しかも相手は元主家の姫。一旦は右大臣家を追い出されるように退出した後の結婚となったから、これは苦難を乗り越えての大恋愛に違いない、とみんなが噂しているらしい。……実際その通りなので、何も反論もないのだが。

「はぁ……あんまり、人の口の端にのぼりたくないのよ。丹後も、少し、控えてちょうだいね。あの……あたくし、これでも一度は入内もしようとしていた身なのだから……あんまり、こう世間に知れるのも、父上様の対面にもかかわるし……」

「あらあら、その春宮様も今上も、お喜びだそうじゃないですか。なにより、お殿様が一番お喜びで、控えめな素振りをしながら、あちこちで触れ回ってますわよ」

「ま、まぁ……」

 椿はそれ以上何も言えず、口を閉ざした。

「ふふ、本当にねぇ、あの隆文さん……様が」

 隆文は隆文で、この邸には顔見知りの者が多く、椿の元を訪ねるたびに冷やかしや好奇の視線がそれは痛いほどらしい。

(……あたくしはただこの部屋に閉じこもって人を寄せ付けなければいいけれど……)

 外から通ってくる隆文にはそれもできないし、今まで共に働いた者達を無視することも出来ないだろう。今日に至っては寝殿で父右大臣にもてなされるなど、生きた心地がしないのではないだろうか。

(いやだわ……。早く落ち着けば良いのに)

 椿と隆文が露顕(ところあらわし:結婚のお披露目)をごく控えめに行ってから、十と数日。しかし今、都はもっぱら二人の噂話で持ちきりなのである。



 丹後が部屋の片付けをして退がってからしばらく、ようやく安芸を先導に、隆文がやってきた。

「兄さま、大丈夫ですの?」

「あぁ……」

 隆文はいつになく赤い顔で、足元もふらついているようだった。

「隆文? 御酒を飲んだの?」

 記帳の陰に座っていた椿は思わず立ち上がって隆文の様子を伺った。

「姫……。はい、つい寝殿で、飲まされまして。遅くなって、すみません」

「まぁ……いいのよ、じゃあ、こちらへ座って、楽にして」

 隆文を奥へ座らせて、椿は安芸を振り返った。

「安芸、お薬湯をお願いね」

「あぁ、大丈夫です、姫。先ほど水を飲みましたから。……いい、安芸。もうさがって」

「あら……大丈夫ですの?」

「大丈夫。……いいから、さがってくれ」

「ま」

 いつになく乱暴な隆文の口調に、安芸は気を悪くしたのか、口を尖らせて退がって行った。

「……隆文?」

 寝殿でのもてなしで気を使ったせいで、疲れて機嫌が悪いのだろうか。椿は隆文の側に腰を降ろすと、様子を伺おうと顔を覗き込んだ……と。

 突然頭の後ろに手をあてられ、引き寄せられた。

「!」

 そのまま、気づいたら口付けられている。

「……!」

 鼻先を掠める、御酒の匂い。

 どくどくと心臓が騒いで胸が苦しくなったころ、やっと解放された。

「はぁ……」

 吐息が漏れる。椿は隆文の顔を見上げた。

「隆文……?」

 隆文はすねたような表情をしていた。

「今日はもっと早くお会いできるはずだったのに……」

「え」

「貴女に会うのも、一苦労ですね。……今日は大臣にもいじめられるし……」

「えぇっ?」

 椿はさっと青ざめた。

「いじめられるって、ど、どうしたの? 父上様はまだお怒りなの……?」

 父の許しが出るまで、それは長い時間が必要だった。まだ、怒りが解けていなかったのかと、不安になる。

「いえ……」

 隆文は気のせいか先ほどよりも頬を染めて、視線をそらした。

「姫の……婚期が遅れたのはお前のせいだ、孫の顔を拝むのが遅れたのもお前のせいだと……。早く……姫の子が……見たいのに……と」

 隆文の声はどんどん小さくなり、椿の頬はどんどん朱に染まっていった。

「ち、父上さまったら……」

 一度許したら、もう手のひらを返したようにそんな事を言うなんて。

「本当はもうずっと前から許してくださるおつもりだったのが、機がなかったと……それも全部お前のせいなのだと……なんだか……いろいろと、いびられました」

 隆文は苦笑いして椿を見た。

「い、嫌だわ、……もう。ごめんなさい、隆文。気を悪くしないで……」

「姫が謝る事ではありませんよ」

 隆文はくすくすと笑い、ひょいと椿を抱き寄せた。

「これも主家の姫を得た私には、当然の試練なんでしょうね。甘んじて受けますよ」

 隆文の直衣の胸から、馴染んだ香が薫る。

「それにしても、この家には身近な者が多すぎて、さんざん当てこすりも言われるし、やっぱり少し、つらいですね」

 隆文は口元に指をあてて、首をかしげるような仕草をした。

「あ、あの、隆文、でも……でも、来づらいのは分かるけれど、でも……」

 訪れが減ったりしたらと思うと、辛すぎる。椿が言いかけると、隆文は優しく微笑んだ。

「心配なさらないで。私は嫌がられたって来ますから」

「まぁ」

 どくん、と胸が高鳴る。

「ただ……やはり姫には、はやく我が家に来ていただきたいですね」

「え? 家?」

「四条の万里小路の屋敷を、修繕させているんです。あと半年もすれば、終わるでしょう。そうしたら、ぜひ姫にお越し頂きたいのですが……」

「い、行くわ!」

 間髪入れず、椿は叫んだ。

 隆文が苦労をして右大臣邸を訪ねなくても、毎日、隆文が帰ってくる家に住んで、その帰りを待って居られる。それは、夢のような事に思えた。

「良かった」

 隆文は嬉しそうに微笑んで、それから少し眉をひそめた。

「あとは……右大臣様のお許しが……また必要ですけど……」

「……そ、そんなの! あたくしも、一緒にお願いするわ、だから、大丈夫よ! ねぇ隆文、そうしたら、安芸も一緒に、連れて行きましょうね」

「……そうですね」

 隆文は笑いながら、椿の頭をぽんぽんと撫でた。撫でられたと思ったら、ぐっと抱き寄せられ、強く、抱きしめられていた。突然の、息苦しいほどの抱擁に、椿は困惑する。

「た、隆文……?」

「たまに……どうしようもなく、愛しくてたまらなくなるんです」

「え、あ、あの……」

「どうしてくれます?」

「え、あの、え……?」

 ふっと腕が緩んで見上げると、くちびるが落ちてきた。

「……椿……」

 耳元で囁かれ、しびれるような感覚に身を任せていると、またくちびるが頬をかすめ、まぶたをかすめ、そして唇にとまる。

 愛しさがあふれて止まらないのは、椿も同じ。ぎゅうっと、しがみつくように隆文の背にまわした腕に力をこめた。

 しばらくそうして抱き合って、そのうちふっと隆文の腕の力が緩んだ。

「……しかしそうするとまた、私達は都人(みやこびと)の噂の格好の餌食になるんでしょうね……」

「……あたくしは、構わないわ」

 きっと苦労をするのは隆文なのだろうけれど、それでも椿はこの幸せを手放したくなかった。

「……そうですね」

 椿は腕を解いて少し体を離し、隆文を見上げた。

「ごめんなさい、隆文。貴方ばかり、嫌な思いをさせて……」

 隆文は微笑んだ。

「姫を……椿をこの手に抱けるのなら、苦労など露ほどにも感じませんよ」

「ま……」

「右大臣様を落とすのは、もうコツを掴んでますから」

「まぁ」

 二人、顔を見合わせてくすくすと微笑みあう。

 

 幸せな夜は、いつまでも続いた――。


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