夢逢瀬の夜.
燭台の炎は小さく揺らめいて、姫君の横顔を弱々と照らしていた。
「峰平の君……」
「甘菜、様……」
儚げに消えてしまいそうな、それでいて冴え渡るような美しさを湛えた、姫君。
はっきりと顔を見た事はまだ数えるほどしかない。それでもそこに居るのは、桐壺女御・甘菜姫その人に、間違いないと確信があった。
「……また、会えたのね……」
長い睫毛を何度も上下させて、自分を見つめる柔らかな眼差し。
……まだ、信じられない。
妹姫の百合姫とこの甘菜姫が入れ替わったと、春宮に聞かされたのは半月も前の事である。二人、入れ替わったから、お前は予定通り妹の二の姫との結婚話をすすめろ、と。
正直なところ、半信半疑だった。あの夜以来、桐壺には近づいていないし、女御の様子を確かめる術は無かった。
しかし春宮には一生かかっても返しきれない恩がある。
春宮の言葉には生涯、絶対服従すると誓っている。
当然、春宮に言われたのであれば相手が二の姫でも他の誰でも、峰平は結婚するつもりだった。
しかし結婚の夜の今日、そこに居たのはやはり、紛れも無く女御その人で……。
「甘菜様……」
我知らず声が震えた。
この弱い人を守るために、一度はその命を断ってしまおうとさえした。
もう二度と言葉を交わすことも、目を合わせることも無いと、そう信じていた、愛しい人。
あり難さに、涙が浮かんだ。
「……幸孝様……」
この恩を本当に、どうやって返せば良いのだろう。
膝についた手の甲に、ぽたりと雫が落ちる。
しばらくそのまま動けずに居ると、やがて雫の上にそっと、白く透けるような手がかぶさった。
「峰平の君、春宮はとてもお幸せなのですって……百合からもらった文に書いてあったわ。百合と二人で、とってもお幸せなのですって。……だから、峰平君も私も、もう何にも心配は無いから、幸せになって欲しいって……。そう、春宮はおっしゃっているんですって」
「……っ」
「峰平の君……。私、春宮がそう言ってくださるなら……幸せになりたいと、思うわ。一緒に幸せに……なりましょう……?」
重ねられた手の甲を暖めるように優しく撫でられる。
この人を愛しく思った事で、これまで一体どれだけ苦しんだ事だろう。
しかしそれでもどうしても、愛しくてたまらないのだ。
「……そうですね、幸せに」
なりましょう、といいかけて、涙で声が詰まった。
ゆらゆらと揺らめく灯りを写す、大きな瞳が不思議そうに見上げてくる。峰平は恥ずかしさをごまかすように手の甲で目をぬぐった。
すると、甘菜が口を開いた。
「……お泣きにならないで。……貴方の不安も悲しみも、私には分からないけれど、こうしてずっと、お慰めします。心安らげるようなお慰めをずっと、献上いたしましょう」
「……!」
峰平ははっとして顔をあげた。その、台詞は。
甘菜の顔を見つめると、その口元にこぼれる花のような笑み。
「ふふ、峰平の君の真似よ。……私あの時本当に、嬉しかったの……。今度は私が峰平の君をお慰めするわ……。ずっと、ずっとよ。……だから、お泣きにならないで……」
「甘菜様……」
峰平は重ねられていた手の甲を掴み、ぐっと引き寄せた。
「あ」
柔らかな重みが胸にかかり、桐壺に馴染んでいた香が、鼻先に強くかおる。
何の後ろ暗さも無く、このひとを胸に抱くことができる日が来るなど、想像もしなかった……出来なかった。
それが今こうして、妻として、抱きしめる事が出来るのだ。
「一緒に、幸せになりましょう。貴女と私と……お腹の御子と、三人で一緒に……」
一度乾きかけた目頭がまた、熱くなる。
すると、胸の中の甘菜が、不思議そうに呟いた。
「ヘンだわ……私、どうして……?」
「どうされました?」
「悲しくないのに、涙が出るわ……」
峰平はふっと笑い、なぐさめるようにその髪を、何度も撫でた。
泣いてばかりだったこの人は今、初めて悲しみ以外の涙を流すことが出来たのかもしれない。
「……それは嬉し涙ですよ。……僕が流しているのも、そうです。……だから、心配なさらないで。こんな時は、泣いても良いのです」
甘菜は不思議そうな顔のまま峰平を見上げ、涙を含んだ長い睫毛を何度も上下させた。それから幸せそうに頬を緩め、はにかんだ笑みを浮かべた。
「……私達、今とても、嬉しいのね」
「ふふ、そうですよ、甘菜様」
「嬉しい……」
頬を赤らめたその微笑みに吸い寄せられるように、峰平はそっと唇を寄せたのだった。
もどる
[平安][Home]