一.
山桜 霞の間より ほのかにも 見てし人こそ 恋しかりけれ
――今一度、あなたにお逢いしたい――
恋文は、唐突に届いた。
中納言家の姫・綾音は、文の最後に書かれた「時平」の名に目を見張った。
(うわー、懐かしい)
綾音にとってそれは、とても、懐かしい人の御名だった。もう、十年以上も前の記憶――綾音はその人の面影を懸命に手繰り寄せた。
あれは、綾音がまだ六つの頃だ。母に連れられて、母の妹――叔母の尼君を尋ね、宇治の尼寺を訪れた時のこと。偶然、その尼寺に居合わせた男君がいた。宮筋の尼様を訪ねて来ている高貴なお血筋の御子、という話で、その子もまだ七つか八つ程だった。直ぐに意気投合した二人は、お互い子供だったせいもあって、身分も何も気にせずによく一緒に遊んだ。夢中で遊んだ七日余りは、夢のように早かった。明るくて可愛い男の子で、綾音はその子の事を大好きだったのを、よく覚えている。
(私の事なんて、覚えてたんだぁ……)
これは後で知った事だが、なんとその子は今上帝の三の宮、時平親王であった。今では式部卿の宮と呼ばれる一品の親王である。
(なんでまた、今頃……)
つい懐かしく嬉しくなってしまったけれど。はた、と綾音は首をかしげた。
名を明らかにした恋文とは、すなわち求婚を意味している。この時代の結婚の条件は、何をおいても身分が最優先。綾音は、一応摂関家の末流とはいえ、四十にしてやっと中納言になったばかりの父・義貞の娘である。親王という尊い身の時平に、綾音の身はあまりにも不釣合いな気がしたのだ。
「どうしよう」
文を持ってきた女房の夏木を見上げて、綾音は首をかしげてみせた。
「ねぇ? 親王様だよ、これ……」
唐突に振られた夏木は、親王などという雲の上の話に困惑し、オロオロしながら口を開いた。
「その文を持ってらっしゃった方も、そりゃあご立派な公達でいらっしゃいましたわ。あの、私、ただの文使いの方とは思えなかったので、とにかく寝殿へお通ししようと思ったんです。でもその方、全然聞いて下さらなくって、その、文だけ渡したら、さっさと帰ってしまわれたんです。あぁ、私何か無礼を働いてしまったのかもしれませんわ、姫さま、どうしましょう……っ」
(どうしましょ、って)
逆に相談されてしまった綾音は、うーんと捻った。
「……しょうがない、父上様に、相談するかぁ……。あんまり気は進まないけど……」
この時代、結婚というものは、本人の意志では決まらない。親が決めるだ。当然、恋愛も。遊びの恋なら話は別だが、しかし綾音は器用に遊べるほどの、恋の経験などない。というより、恋の経験など一度もなかった。
(こんな身分の高い人に、どんな返事出していいか、分かんないし……)
やっぱり相談するしかないな、と思い定め、綾音はぼんやりと綺麗な御文を眺めた。
すかしの入った桜の重ね。御文から漂う春の薫り。
(ああ……。あの時も、春だった)
遠かった記憶が綾音の瞼の裏に鮮明に蘇る。
(桜の花びらを追いかけて、桜の木の下で、転げまわって遊んだんだっけ)
ほんのつかの間。桜が咲いていた間。満開の桜に緑が混じる頃、綾音と彼の人は「またね」と言って別れたんだ。それきり。
(もう一度、逢えるものなら逢いたいけど、ね……)
綾音は長いこと桜の御文を見つめて、それから丁寧に畳んで文箱にしまった。
「あら、お殿さまにご相談しないんですの?」
夏木が首をかしげる。
「うん、まぁ、今日は、いいかな」
枕元に文箱を置いて、綾音は寝台に寝そべった。
「明日報告するよ。今日はもう、眠いし」
「あら、だってまだ、酉の刻(午後六時)ごろですのに…」
夏木は不思議そうに留まっていたが、そのうち燭台の灯りを落とし、さがっていった。
懐かしい思い出に、浸りたい気分だった。
(ちょっとだけね。ちょっとだけ……)
うきうきと跳ねるような気分を、もう少しの間、楽しんでいたかった。
しかしその翌日も、文は届いた。
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