二.
「どういう事だ、綾音!」
唐突に御簾を捲くられて、昼食をとっていた綾音は思わず手に持っていた椀を転がす所だった。
普段、綾音の部屋を訪ねる人間など滅多に居ない。女房の夏木だけはしょっちゅうやってきて身の回りの世話をしてくれるものの、他に人の出入りはない。父の義貞だって滅多にやっては来ないし、来るときは前もって夏木が知らせてくれるのだ。それなのに。
そこには顔を会わすのも一月ぶりの兄、貞成が立っていた。参内から帰ったばかりの、束帯(そくたい:正装)姿である。
「……お、お帰りなさい、兄上さま」
青く引きつった兄の顔を見上げながら、常ならぬ様子、ってこういう様子をいうんだわ、などとのんきに考える。貞成は綾音に詰め寄った。
「おまえ、最近変わった事は無いか!」
貴族の女性の身の上に、変わった事、などほとんどありえない。暇で暇でしょうがないのが常なのだ。こころ当たりなど……一つしかなかった。
「あぁ……。……お文の事、かなぁ……」
「文!? おまえ、もう文なんかもらってたのか!?」
ずいっと顔を近づけられて、おたおたと綾音は背をそらす。怒鳴るような事かなぁ、来ちゃったもんはしょうがないでしょ……と言いかけて、怒られそうなのでやめた。
「返事は!?」
「へ、返事……」
「そうだよ! 返事だ! 返したんだろうな、ちゃんと代筆はたてたか!? お前の女房で筆の達者な奴なんていたか!?」
「……」
ぽかん、と綾音は兄を見上げる。なにをこんなに焦ってるんだろ、兄様は……?
「式部卿の宮さまなんだろう!?」
迫力に、胸倉をつかまれるんじゃないかと思って綾音はじりじりと後退った。怖くて口を開けない。助けを求めて振り返ったが、さっきまで居たはずの夏木の姿は忽然と消えていた。……ひどい。
「……まさかお前」
貞成の声が一段下がった。
「……何も返していないんじゃ」
「……」
うん、とは言いたくなかったけれど、真実だから仕方ない。仕方なく無言でうなずくと、兄が息を吸い込む音が聞こえた。
「……阿呆!!!」
思わず首をすくめつつ、貴族のくせにこんなに大声張り上げるなんて、兄上様どっか切れちゃったんじゃ……と綾音は心配になった。そんな綾音の様子など気に留める素振りもなく、兄は懐を探りはじめた。す、と取り出したのは、立派な御料紙。
瞬間。ふっと薫った、その薫り。その薫りに、覚えがあった。
綾音ははっと目を見張る。
「……式部卿の宮さまからだ」
重々しい口調で、兄は言った。
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