十.
結婚の日まであと十日。今日も中納言家の姫のもと、桜色のお文は届く。
綾音は嬉しげに、何度も文を広げては、ほう、とため息をついた。
「姫さま、もう五回目ですわよ」
ハッとして綾音は文を閉じた。
「も、もう! 数えないでよっ。ていうか顔見ないで。もぉー」
真っ赤な顔を背けて袖で覆った。
時平に会ったのは、一度だけ。あれからもう、二十日も経つ。しかしその間に貰った文は、三十通にも昇っていた。本当に、時平はマメな人だ。綾音は、気づけば毎日、文が届くのを心待ちにするようになっていた。
いつの間にか、すっかり捕らわれてしまった、と綾音は思う。いや……本当は、あの夜。あの夜、切なげに想いを語った姿を見たあの瞬間から、綾音は捕らわれていたのかもしれない。
あんな風に言われて、ときめかないなんて、嘘だ……。
「うらやましい限りですわ」
夏木はにこにこと笑った。
「姫さま、最初はお嫌なのかと思って、心配しましたのに。ご本人にお会いしたら、コロリ、ですものね」
「!」
「まぁ、あの男ぶりでは、無理もないですけど」
恥ずかしさの余り、綾音は突っ伏して耳を塞いだ。
「うぅー、言わないでよぉぉー。別にコロリって訳じゃ、ないもん……」
ふふふ、と楽しげな夏木の笑い声が漏れる。
「あら、まだそんな事おっしゃて。もうご結婚も決まったんですもの、良いじゃないですか。ほんと、姫さまはお幸せですわ。姫さまのような高貴な方は、想い人と添い遂げるのは難しいものですのよ」
貴族の姫と言えば、まともな恋など一度もせず、ただ親の決めた許婚と、顔も見ぬまま結婚するのが当然の世の中である。
綾音自身、まだはっきり恋と呼べるほどの、自覚はないけれど。こんな風に想える人と、結婚できるというのは、本当に幸運なことだった。
「……う、うん。私は、幸せ、だと、思う、よ……」
言いながら、また恥ずかしさがこみ上げて、だんだん小声になってしまう。
「ほぉー、それはなによりだ」
突然、思いがけない声が聞こえて、突っ伏していた綾音は跳ね起きた。
部屋の入り口の柱にもたれて、こちらを見おろしているのは、兄、貞成。
「あ、兄上さまっ」
きゃぁ、と声を上げて綾音は几帳の影に隠れた。とんでもない台詞を聞かれてしまった。もう顔を合わせるなんて出来ない。
夏木も大慌てで綾音の前の几帳を二重にしてやり、その前に円座をひいて、貞成を促す。
しかし貞成は用意された円座には座らず、ずいっと几帳の内側まで入って来た。
「ちょ、ちょっと、兄上さま、兄上さまのくせに、常識はずれなんじゃないの!? 几帳に隠れてる女性の元へずかずか入ってくるなんて!」
「なにが女性の元へ、だ。妹だろ」
そう言って貞成は、部屋の隅に重ねてあった円座を一枚拾い上げ、綾音の前に勝手に敷いて、腰を下ろした。よく見れば貞成の頬は薄っすらと赤く、御酒の匂いがした。
(兄上さま、酔ってるんだ)
なんなのよ、と綾音が頬を膨らます。
「その顔は時平様の前ではするなよ」
慌てて綾音は頬をすぼめた。
「も、もぉ、何よ」
「兄が妹の顔を見に来て、悪いか」
「な、何で!? 用が無きゃ、いつも来ないでしょ? 兄上さまの部屋、遠いもん。顔なんて合わせなかったじゃ……」
「そうだな。……来ておけば良かった、もっと」
そう言って、兄はじっと綾音を見つめた。
「え……」
どうしたというんだろう、今日の兄は。
「お前、嬉しそうだな」
「え?」
「時平さまが、好きか」
「!」
ぼっと、火を噴きそうに顔が熱くなる。兄はふっと笑った。
「愚問か。……最初は、嫌がっている風だと思ったが」
「……」
綾音は赤い顔を伏せたまま、あげられない。
「なら、いい。……身分違いの結婚は、互いを不幸にするが……。釣り合いが取れないというほどでもない。お互い好きなら、それが一番だろうよ。時平さまは、ああ見えてお前だけは大事にしてくれそうだ」
思いがけず優しい声音に、綾音はつい、顔をあげた。兄は優しい目をしていた。ぽんぽん、と頭に手を載せられる。
「兄上さま……」
いつも小言ばかりの口うるさい兄と思っていたのに。
ふいに、兄は立ち上がって、そのままこちらに背を向けた。
大きな、兄の背中。
なぜだか急に、寂しいような懐かしいような、不思議な気分に包まれて、綾音の目に薄く涙が滲んだ。
呼び止めようか、と綾音が口を開きかけた時、兄は振り返っていたずらっぽく笑った。
「……時平さまが家に来ている」
「!?」
「今、寝殿の方で父上と女房達がもてなしてるよ。……じきに、こっちへ渡られるから、準備しておけ」
「……え、えぇ!?」
兄の足音が遠ざかる。一瞬こみ上げた感傷などどこかへ吹き飛び、綾音の心臓は大きく脈打ち始めた。
「ど、どぉしよう。急すぎだよぉっ」
綾音は頬を押さえたり胸を押さえたりして何とか気を静めようと努力する。助けを求めるように夏木を見上げたが、夏木は大慌てで円座を拾いあげたり、几帳をずらしたりして、忙しく働き始めていた。
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