十一.
几帳の向こうから春の薫りが漂ってくる。綾音は顔も上げられないまま、じっとその人の気配を伺った。
綾音と時平は几帳を隔てて対面しており、それぞれ綾音の後ろには夏木が、時平の後ろには貞成が控えている。
「なんだ、几帳越しか……」
不服そうな声に、どきりとする。相変わらずの、低く通る声。声を聞くのは二度目になる。
「顔が見えないな……。元気なのか? 綾音……」
尋ねられて、綾音はそろそろと顔を上げた。几帳の隙間から覗いた時平の顔は、相変わらず綺麗だった。不服そうに口を尖らせ、首をかしげているのが見える。
「……えぇっと、はい、その……元気……です」
おずおずと答えると、時平はさらに不服そうに眉を寄せた。
「なんか……、他人行儀なんだな」
「え……」
下手くそな敬語がまずいんだろうか。そういえば前に会った時、綾音は敬語を使った記憶が無い。しかしどうやって話していたのかも、良く思い出せなかった。
「……」
沈黙に、緊張がこみ上げる。
――どうしよう。こんな事で、誤解されたく無いのに……。
「と、時平さま……」
綾音は声を絞った。
逢いたかったのだ。綾音は、また逢える日を、本当に楽しみにしていた。しかし兄も夏木もいるこの場で、素直に言葉にするのはためらわれる。
綾音が考えあぐねていると、時平が後ろを振り返って声をかけた。
「なぁ貞成、几帳、取ったらまずいか。顔が見たい」
突然声をかけられて、貞成は驚いたように腰を浮かした。
「え? あ、ああ、どうだ、綾音」
兄の問いかけに、綾音の身体は勝手に動いた。
「時平さま」
気づいたら、几帳の隙間に手を突いて押しのけ、ひょっこりと顔を出していた。
「……あ」
しまった、と直ぐに気づく。慌てて几帳の内に引っ込んだが意味がない。
「あ、阿呆! いくらなんでもそんな出方があるか!!」
すかさず貞成が立ち上がって怒鳴った。
「……っ」
無意識だった。つい、誤解されたく無くて、早く顔を見せたくて、綾音は動いてしまっていた。
……確かにこれは、恥ずかしい。
「何のために女房が控えてると思ってるんだ、お前は。大体な、几帳をどかすにしてもせめて二回は恥らって断れ! それを自分から飛び出すなんて……」
貞成の小言の途中で、時平が立ち上がった。まぁまぁ、と言うように貞成を手で制すと、くるりと綾音の方に向き直る。
時平は自ら几帳をどかした。
綾音の視界がすっと開けて、目の前に立つ時平の姿が映る。
「時平さま……」
見上げると、時平は嬉しそうに笑っていた。
「綾音……やっと、ちゃんと見れたな」
つられて綾音も微笑んだ。
「えへへ、久しぶり。……時平さま、元気そうで、良かった」
不思議なほどあっさりと、肩の力が抜けていった。まだ胸の動機はおさまらないけれど、嫌な緊張感は嘘のように晴れた。
「……ひさしぶり……?」
貞成は小声で呟いて、いぶかしげな顔をした。二人がしょっちゅう文のやり取りをしているのは知っていたが、会ったという話は聞いていない。貞成にしてみれば、二人は今日、初対面のはずなのだ。しかし二人の様子から、そんな雰囲気には見えない。
「……」
貞成の心中は複雑である。
しかし綾音も時平もそんな貞成の様子には全く気づかなかった。
「綾音、ごめんな。日取り……遅くなっちまって」
時平はすまなそうに言った。結婚の日取りは時平と父中納言貞義とで一緒に決めた訳だが、決まるまでにはなんだかんだと時間がかかった。この時代は何をするにも占いに左右されていて、結婚には三日連続の吉日が必要とされる。これが、なかなか良い日が無かったのだ。
「陰陽の頭の奴がどうしても十日後にしろってきかないんだ。占いなんかどうだっていいから早くしろって言ったんだけど、譲らなくてさ。ったく、昔から陰陽寮の奴らはそろって生意気なんだ。いつか潰してやる、あんな寮」
「……ぷっ、時平さまってば」
子供のような口調に、綾音は思わず噴きだした。
「そ、それはいくらなんでも罰当りな……」
貞成は驚愕して唸り、本気で心配している。
「……」
「……」
綾音と時平は目を合わせて笑い、夏木も失笑していた。
この時が、二人の幸せの絶頂だったかもしれない……。
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