十.



 伊予の介は、床を滑って几帳の外に飛び出した扇に目を落とし、それから豪快に笑った。

「京育ちの姫君だっていうから、どんな大人しいのかと思ったら……なんだ、伊予の女よりすごいんじゃないか、ははっ」

「……う、うるさいわよっ、とにかく分かったらさっさと帰って二度と来ないで!!」

 楓が言うと、伊予の介はふと黙った。じっと几帳を見ている。

「……分かんねぇなぁ……、誰とも結婚する気がないってのはどういうことだ。まさか本当にずっと備前の守殿に養ってもらう気か?」

「……わ、私は……。そうよ、伯父様の家へ行って、女房として一生働いて、これまでの恩に報いたいの」

「はぁ!? なんでわざわざ女房になるんだ? 結婚すれば北の方として、働かずとも今まで通りの生活をおくれるだろうが。俺のところへくれば今よりずっといい生活をさせてやるぜ?」

「そういう問題じゃないわよ」

「どういう問題だよ? 俺にはさっぱり分からねぇ」

「……」

 このままいくら言ってもこの男は帰りそうに無い。隣室ではあの中将も、耳をそばだてている事だろう。いい機会だわ、と楓はすぅ、と息を吸い込み、

「……私、男に頼って生きるのが嫌なのよ」

本当の理由を語り始めた。

 楓の母は昔、大貴族に仕える女房だった。何という貴族なのか、その名までは楓は教えてもらっていないが、一流の名門貴族だったらしい。母はその家の北の方付きの女房として使えていた。北の方がまだ北の方になる前……婿を迎える前の幼い姫君だった頃から、母はその姫に仕えて、まるで姉妹のように仲良く育ったらしい。ところが姫君は結婚して北の方となってから、不幸になった。その夫は浮気性な人で、あちこちの姫に手を出していたのだ。そしてある日その夫は、楓の母をも見初めて、手を出した。

 しばらくは秘密を抱えたまま、胸を痛めつつ北の方に仕えていた母だったが、とうとう腹に子を身篭ってしまった。北の方に対する裏切りが心苦しく、母は子を生む前、腹が目立ち始める前に邸から姿をくらまし、既に備前の守の北の方となっていた姉に縋って、身を寄せたのだった。

「私は母に手を出した男が許せないの。その貴族の北の方様も不幸なのに違いないわ。夫に裏切られ、仲良く暮らしていたはずの女房を失って……。私は、貴族の男なんて信じられないし、縋って生きるなんてまっぴらなのよ」

 そこまで言って、ほう、と息をつく。

 伊予の介はにやりと笑った。

「なんだ、よくある話じゃないか」

「な……っ」

「それで? あんたは備前の守の家で女房になって、今度は伯父のお手つきになる気なのか」

「ば、馬鹿言わな……っ」

 叫ぼうとしたとたん、伊予の介はぬっと立ち上がった。大きな体躯に部屋の明かりが遮られ、楓は思わずびくりと身を竦めた。

「あんたの話は分かった。だが俺は納得いかない」

 立ち上がった伊予の介はもう笑ってはいなかった。真面目な顔で、楓を見下ろしている。じわ、と楓の身体を嫌な汗が流れた。

「そんな理由だというなら、俺はあんたを娶ることにする」

「な、なに……」

 伊予の介がばっと几帳を除けるのが分かって、楓は突っ伏すようにして顔を隠した。

「い、いやぁっ!!!」

 恐怖の余り涙がこみ上げる。この間の、頭の中将に押し入られた時の比ではなかった。あの中将は、少なくともこちらが本気で嫌がることを無理強いするようには見えなかった。しかしこの伊予の介には、こちらの意思などまったく意に介している素振りが無いのだ。

 もう楓にはなりふり構っている余裕が無かった。ただただ、助けを求めて叫んでいた。

「ち、中将さま……っ!!」



<もどる|もくじ|すすむ>