十一.
楓が無我夢中で叫んだときには、もう伊予の介は倒れていた。
がたがたがたんっ!! と激しい物音がして几帳が倒され、その上に重なるように伊予の介が転がっている。はぁはぁと息をついているのは、頭の中将だった。
「貴様……っ、無礼にも程があるだろう!」
「な、なんだ……!?」
突然の頭の中将の登場に、しばし唖然としていた伊予の介だが、すぐに立ち上がって頭の中将に殴りかかった。
「この……っ、何者だっ!」
ガッと鈍い音がして頭の中将がよろめく。しかしすぐに伊予の介は殴り返されて、今度は二人とっくみ合って壁にぶつかった。ガガンッとけたたましい音がなる。
「や、や、やめ……っ」
楓は恐ろしさでひりひりと喉が渇き、まともに声を出すこともできなかった。
「おやめくださいませっ!!!」
大音量の声が屋敷中に響いた。ぎょっとして皆の動きが止まる。女房・八重の声である。八重は倒れている二人を無理やり引き離すと、
「お二人とも、落ち着いてお座りくださいませっ」
そう言って円座を二枚ならべた。
なんとか体勢を立て直した公達二人が腰を下ろすと、八重は深々と平伏した。
「ご無礼をお許しくださいませ。伊予の介どの、こちら左大臣家のご子息、蔵人の頭の中将さまにあらせられます」
「!」
伊予の介はまじまじと頭の中将を見つめ、それからがば、と平伏した。伊予の介の身分では、本来目を合わす事も許されない貴人なのである。
「……ごっ……、ご無礼、を……っ」
伊予の介の言葉はくぐもって声にもならなかった。
「いや……良い、身を隠していた私も悪かった。今日の事は忘れる。女房殿、世話をかけたな」
頭の中将は居心地悪そうにぼそぼそと言った。伊予の介も八重も額を擦り付けるようにさらに深く平伏する。
「伊予の介、……悪いが、引き取り願えるか。それと、こちらの姫には今後近づかないで欲しい」
「……は、はっ……」
短くこたえて、伊予の介はすぐに立ち上がった。その一瞬、伊予の介と楓の目が合った。その目は酷く冷たく「なるほど、こういうことなのか」と楓に告げていた。
「……御前、失礼いたします」
すっと頭を下げ、伊予の介はすぐに退出していった。
「……あぁ、女房殿、あなたも、ちょっと外して……」
「は、はい」
八重もすぐに退出し、衣擦れの音も聞こえなくなると、頭の中将はふら、と立ち上がって楓に近づいた。
「姫……、ご無事ですか」
「あ、は、はい」
几帳は無残にも倒れて破けてしまい、二人の間を遮るものは何もなかった。
「どこか、痛いところは」
何処までも優しい声音で聞かれて、楓はみるみる恐ろしさが消えてゆき、顔を見られていると言う事さえ、失念してしまっていた。
「……いえ、あ、あの私はどこも。それより、中将さまの口元の方が」
中将の綺麗な顔の口元にはうっすらと血が滲んでいた。
「あぁ……そういえば、少し痛むかな」
中将は少し笑って口元を押さえた。
「姫……本当に申し訳ない事をしました」
「いえ、あの、中将さまは何にも悪くないです……っ」
ふ、と中将は目元を和ませて、くるりと背を向けた。
「あ、あの……」
「今夜は、帰ります。どうか、お身体をお大事に」
それだけ告げて、頭の中将は出て行ってしまった。
「あ……っ、笛……っ」
渡そうと思っていた中将の龍笛。今夜頭の中将はこの笛を受け取る名目でこの屋敷を訪れていたのだ。楓は慌てて用意していたはずの笛を探した。
「あぁ……っ!」
しかし高価そうなその笛は、無残にも几帳の下敷きとなり、真っ二つに折れていた。
あの、恐ろしかった晩から、四日。
すっかり片付けられた部屋で、楓はのどかにぼんやりと、庭の楓を眺めていた。
「はぁ……やっぱり中将さまは、一時の気の迷いでらしたのかしらねぇ……」
八重は酷く残念そうにぼやいている。
あれほど盛んに届いていた文が、あの日を境にぱったりと、来なくなったのだ。
「な、なに言ってんのよ、最初から、困ってたんだから。これでいいじゃない!」
「はぁ〜……、それにしても、ねぇ姫さま、ほんに、もったいないこと……」
「い、いい歳して、馬鹿なことばっか言わないでよねっ、もう〜」
ぷぅっと頬を膨らませて、また視線を庭に移す。庭の楓の枝を眺めるうち、何故か心がひんやりと冷たくなった。そういえば、最後に貰った中将の文は、楓の枝に巻かれていた。なんとなく簀子縁まで出て楓の枝を手折ってみる。
「き、気障な殿方だったわよね〜」
一人で笑ってみたのだが、すぐにつまらなくなってしまい、ぽい、と枝を投げ捨てた。
ぽっかりと、胸に穴が空いた様な心地がした。
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