夜渡る月・前編
空にはぽっかりと金の月。
涼しげな風がそよと渡って、禁中の庭を吹きぬけていった。
頭の中将はさらとなびく前髪を押さえ、輝く月を恨めしげに見上げた。
―― ぬばたまの 夜(よ)渡る月に あらませば 家なる妹(いも)に 逢ひて来ましを ――
(夜を渡るあの月になれれば、家で待つ愛しい人に会いに行くものを……)
ぼんやりと口ずさむと、背後からからかうような声がかかった。
「ついてないな、頭の中将」
振り返ると、左衛門督が簀子縁に腰掛けて楽しげな笑みを浮かべている。
せっかくの名月の夜だというのに、頭の中将・幸宗は妻の待つ家には帰れず、宮中で宿直をしているのだ。
「……まだ居たんですか」
今日は仲秋観月(ちゅうしゅうのかんげつ:お月見)の宴が催され、先ほどまでは宮中も多くの貴族達で賑わっていた。しかし月も高く昇りきった今は人もほとんどはけて静かなものである。
今日が宿直役だと分かっていた幸宗は、しかしどうしても今夜妻の家へ行きたかった。前もって近衛の少将に代理を頼んでいたのだが、あろうことか少将は宴で酔いつぶれて従者に引きずられるようにして帰ってしまったのだ。
「……ったく、あいつめ……」
使えん奴だ、とぶつぶつ呟いて、また恨めしげに月を睨む。
「どうせなら曇ってくれれば良いものを」
「おいおい、勝手な奴だな」
「勝手なんですよ、私は。知ってるでしょう」
今日は機嫌の悪い幸宗は、ついいつもの優美な仮面も外れがちになってしまう。相手が義兄の左衛門督でもあるので、尚更だ。
「……楓は」
左衛門督が言ったのに、幸宗はぴくと反応した。
「今頃一人で菓子でも食ってるか、それとも寝ちまったかなぁ」
「同じ月を見てますよきっと……」
「それじゃあ曇っちゃまずいんじゃないか……。ま、俺はそろそろ帰るかな、確かめておいてやるよ」
にやりと意地悪く笑って立ち上がった。むっとして睨んだが、ふと思いついて呼び止める。
「待ってください。文を……」
「ん? なんだ、今日は文を送ってないのか」
「送っていますよ、さっき。……でも、せっかく君が居るんだから、もう一度」
「返事は来たのか?」
幸宗は無言で首を振った。
「……楓はあまり文が得意じゃありませんから……いいんです」
「ほぅ、いいのか」
「え……?」
見ればちらちらと左衛門督が手に持ち振っているのは、萩の枝に添えられた、一通の文。
「お前宛だ、誰からだと思う」
「まさか」
慌てて駆け寄って文を奪おうとしたが、左衛門督はひょいともったいつけてかわした。
「俺は一足先に宴の席を抜けて、さっきまで邸に帰って居たんだ。お前が宿直だって言うから、楓と一緒に月見でもしようと思って訪ねたんだが……珍しくあいつ、文を書いていた。『中将さま、今日は来れないんですって』なんて偉く寂しげに言うもんだから、俺がわざわざ届けに来てやったんだよ。感謝しろ」
「感謝します。だから渡してください」
苛立ちながら言うと、左衛門督はにやと笑ってようやく幸宗に文を取らせた。そのままくるりと踵を返す。
「じゃ、俺は帰る。月見の続きをやるからな。あいつがまだ起きてれば」
「ちょっと待っていてください! 返事を書きますから……!」
左衛門督は面倒くさそうに立ち止まって舌打ちした。
「じゃ、早くしろよ」
返事もそこそこに文を開いた。先ほども言ったとおり、楓から文をもらえることなど滅多にないのだ。
『今夜は必ず参ると言っていたのに、やっぱり来れなくなっちゃったんですね。
今日は八重に、五条の家でも毎年作って貰っていた団喜(だんぎ)を作って貰いました。一緒に食べたかったから、ちょっと残念です。
でも、吉政さんからお話は聞きましたけど、近衛の少将様を怒らないで下さいね。兄上も居るし、私は大丈夫ですから。
最近ずっとお忙しいとかで会っていませんね。次に会えるのはいつになりそうですか?
ちょっとだけ寂しく思っています。あ、でも、本当に、ちょっとだけです。大丈夫ですから。心配しないで下さいね。 楓』
最近は宮中行事やら左大臣邸の宴やら物忌みやらいろいろと重なって、幸宗はなかなか内大臣邸に居る妻・楓に会いに行く事が出来なかった。数えて見れば、もう最後に会ってから十日も経っている。こんなに間が開いてしまったのは結婚して以来はじめての事である。
幸宗はもう今すぐにでも愛しい妻に会いたくなった。文を畳むのももどかしい。『夜渡る月』になどなれなくても、今すぐにでも会いたい。
「左衛門督! ……いや、義兄上(あにうえ)」
畳んだ文を大事に懐に仕舞って左衛門督を見ると、彼は露骨に嫌そうな顔をした。
「……なんだよ」
幸宗はにっこりと、おそらく誰の目にも完璧な微笑を浮かべた。
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