夜渡る月・後編
空にはぽっかりと金の月。
涼しい風を頬に受けて、内大臣邸の姫・楓はぼんやりと簀子縁の先に立っていた。
そのうち、きょろと辺りを見回して、引きずりそうな袿(うちき)を脱ぎ、長い髪の先を紐で結わえると、そっと階(きざはし)を降りて庭に降り立った。
―― 萩の花 咲きのををりを 見よとかも 月夜の清き……
(萩の花が咲き誇るのを、よく見なさいと言う事かしら 月がこんなにも清らかに照らして……)
庭の萩の枝に近づいて、そこまで呟いた楓はゆっくりと首をかしげる。
「月夜の清き…………んー、何だっけ……」
風流に古い御歌を口ずさもうとしたが、失敗に終わった。一人で照れ笑いしながら、月に照らされた萩の花を間近に眺める。
「きれい……」
ため息をついて見とれていると、急に男の声が響いた。
「恋まさらくに」
(恋心は募るばかりだというのに)
「ぎゃああっ」
それは歌の最後の句。唐突な声に驚いて飛び上がったのを羽交い絞めにするように後ろから抱きすくめられた。
「わわ、わ……?」
しかし覚えのある香が鼻先を掠めると、楓の動きはゆっくりと止まる。
「……来てしまいました」
「ゆ、幸宗、さま……。なんで……」
「あなたが珍しくも寂しいなどと、可愛い事を言って寄こすからですよ」
「だ、だって……、お仕事は」
「大丈夫、義兄上にお願いしてきました」
「!」
楓は腕の中必死にもがいて幸宗の方に向き直った。
「あ、兄上は、何て? 怒ってませんでしたっ?」
「怒ってましたけど……まぁ、諦めてくれましたよ。いつもの事ですから」
「あぁ……」
楓は頭を抱えてため息をついた。ひょっとしたら万が一にもこんな事になるんじゃないかとほんの少しだけ予想していた。だから楓は兄に文を届けさせるのは遠慮しようとしていたのに、兄は強引に文を持っていってしまったのだ。
「もう……また嫌味言われるぅ……」
兄の左衛門督は何かにつけては楓の部屋を訪ねて来て、中将の悪口やら愚痴やらを言ってくるのである。そのたびに、一応妻である楓としては、代わりに謝ったり機嫌を取ったりしているのだが……。
「あはは、それは嫌味ではなくて楓の反応を面白がっているだけですよ、聞き流せば良いんです」
「でも……」
「もう、他の男の話は止めましょう」
「!」
楓はかっと頬に血を昇らせた。
「ほ、他の、男って……っ」
「一応、そうでしょう? 今は、せっかく無理にも会いにきた夫の事だけ考えて頂きたいものです」
「あ……」
にっこりと微笑んだ中将の顔が近づいてきて、楓は慌てて目を閉じる。ゆっくりと、唇に降りてきた。
「……っ」
長い口付けが続き、やっと解放されてため息を漏らすと、同時に中将の方もため息をついて、楓を強く抱きしめた。
「……秋の夜の 月かも君は 雲隠り しましく見ねば ここだ恋しき」
(あなたは秋の夜の月なのでしょうか。ほんの少し雲に隠れたように逢えないだけで、こんなにも恋しくなってしまう……)
「……幸宗さま」
楓は幸福な気持ちに身を任せて、幸宗の背に手を回した。本当は少し……だいぶ、寂しかったのだ。
「……庭先に降りるなんて、本当は叱らなければならないところですけど……」
はっと楓は自分が庭先に居る事を思い出した。しかも姫君としてはあられもない格好をしている。普通の姫君ならば絶対にやらないであろう、みっともない場面を見られてしまった……。
「萩に囲まれて月明かりを浴びる貴方は、天女と見紛うばかりでした」
「……!!」
「今夜は特別。叱りませんよ。……昼間は絶対に止めてくださいね」
中将は楓を抱きしめる腕に力を込める。楓が慌てて何度もうなずくと、ようやく腕を緩めてくれた。
「……そうだ、八重がお菓子を作ってくれたんですって?」
「あ、そう、そうです! 食べますか!?」
楓はぱっと中将から離れると、さっと簀子縁に駆け上がって、端の方に寄せてあった高坏(たかつき:食事を置く台)を引っ張り出した。
「そうですね。一緒に月を見ながらお菓子を食べましょう。……ずっと前からの約束ですから、ね」
中将はくすくすと楽しげに笑いながら、足を階に投げ出すようにして簀子縁の端に座った。
「あは」
楓は中将が滅多に見せない無作法な様子が嬉しくて、真似をして隣に座り、同じように階に足を伸ばした。
お菓子を食べるのも月を眺めるのもそこそこに、二人はお互いばかりを見つめ合い、いつまでも身を寄せ合っていた。
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