一.



「ねぇ隆文……こっちへ来て」

 細く抑えられた声が几帳の奥から響き、ひっそりと静まり返った夜の闇を揺らした。がらんとした板張りの局(つぼね:部屋)に、姫君と男が一人。絞られた燭台の灯りが二人の姿をよわよわと照らしだしている。

「出来ませんね」

 冷たい口調で背けられた男の横顔は静かな美しさをたたえている。涼しげに見えるはずの青の直衣が、いっそ冷たく男の美しさを際立たせていた。姫君・椿は几帳の内でじれたように身を乗り出した。

「今は、……誰の目を気にする必要もありません。お願いだから……」

「姫。このような深夜に私を召すのはお止めください。万が一にも私のような者との仲を疑われるような事があっては……」

「……だ、だって、だってあたくしは……」

「姫はもう入内がお決まりなのです。……軽はずみな行動は、お慎しみなさい」

 椿はかっと頬を染めた。どこまでも平静な隆文のもの言いに怒りが込み上げた。

「あ、あたくしを……っ」

 感情のまま高ぶりそうになった声を飲み込み、ふっと息を吐き出す。細く抑えた声で、言い直した。

「あたくしを好きだと言ってくれたのは、嘘だったの……?」

「……」

 隆文は逸らしていた視線を戻し、几帳越しではあるがまっすぐと、椿を見た。

「……それを口にしてはいけなかった。後悔しています」

「……っ」

 椿は持っていた扇をぐっと握り締めた。

「あたくしは……嬉しかったのに」

「過ちだったのです、姫」

 どうしてこうも冷静に、過ちと言い切れてしまうのか。椿は目の前の男がいっそ憎くなる。

「隆文。……こちらへ来て」

「出来ません」

「来なさい。……命令よ」

「きけませんね」

「主家の姫の命令が聞けないと言うの」

「はい。……私の主はあくまで大臣(おとど)ですから」

「……っ」

 椿はすっと立ち上がった。

「ではあたくしが行けば良いのね」

「いけません、椿姫。右大臣家の姫君ともあろうお方がやすやすと几帳の外へでるなど持っての他です。はしたない」

「……ち、父上さまは、貴方ほど口うるさくありません」

「ええ。ですから代わりに私がうるさくしているのです」

「も、もう……っ」

 何を言っても隆文は、取り合ってくれない。椿がどれだけ必死の思いで言葉を紡いでいるのかなど、気にもとめてはくれないのだ。

「お願い、ほんの少しでいいの……っ」

 椿は堪らず几帳の外へ出た。衣擦れの音とともに弱い明かりが揺らめく。椿はずいぶん久しぶりに、隔てなしに男の顔を見た。

「……隆文」

「困った姫ですね……」

 隆文はふぅと嘆息し、顔を背けてしまった。

「扇を。せめて顔は隠してください」

「嫌よ……。見て、隆文。あの、裳着(もぎ:女子の成人式。十二〜十四歳で行われる)の日からもう五年経ちました。あたくしを、見て……」

 そう言ったものの、椿は膝に力が入らず、ふらりとその場に座り込んでしまった。とても、緊張していた。……もう五年、隆文が自分の姿を見ることなど無かったのだ。失望されたらと思うと、胸が詰まりそうだった。

「……椿姫」

 諦めたのか、隆文は椿の方へ顔を向けた。緊張で、椿の身体に震えが走る。不安を隠せないまま、隆文と視線が絡んで、数瞬。永遠にも感じられた時の後、隆文は優しげな笑みを浮かべた。

「美しく、なられましたね」

 えも言われぬ想いが椿の胸いっぱいに広がる。しかし隆文の笑顔は、どこか切なげに見えた。

「……気が、済みましたか」

 隆文はすっと立ち上がった。そのまま局を去ろうと踵を返してしまう。

「ま、待って……」

 振り返らずに発せられた隆文の言葉が、椿の胸を冷たく凍らせた。

「……春宮もきっと、お気に召される事でしょう」



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