二.
椿は右大臣家の三の姫として生まれた。右大臣にとっては末の子供で、蝶よ華よと大切に育てられた、深窓の姫君である。
「私も、お姉さまのように入内(じゅだい)して、女御(にょうご)様になるの」
それはまだ椿が七つの頃だった。姉君の咲子姫は十四の歳に、それは盛大で華やかな裳着を行い、その後まもなく春宮妃として入内された。御所へ向かう車の列はどこまでも長く連なって、垣間見える女房たちの色鮮やかな装束が目に麗しく、付き従う大勢の随身(ずいじん)たちの声も賑やかな、華々しい行列だった。椿は幼心にとても憧れたのだ。
「おお、嬉しいことを言ってくれる」
右大臣はまだ振り分け髪の椿を抱き上げて、ほくほくと嬉しそうに笑っていた。
「ふふ、そうしたら、お姉さまと同じようにたくさんの御車で御所へ行くのよね?」
「そうだとも、まぁ、まだ気が早いがね。その日のためにも可愛く育っておくれよ」
「はぁい。ね、その時は安芸(あき)も一緒よ?」
椿が振り返った先の庇(ひさし)には乳姉妹(ちしまい:乳母の子供)で女童(めのわらわ)の安芸が座っていて、にこにこと微笑ましげに二人を見ていた。
「まぁ、わたくしも連れて行ってくれるんですの?」
「そうよ、ね、父上さま」
くりくりと大きな瞳で父を見上げる。
「そうだなぁ、二人は仲良しだから、それが良いね。私は寂しくなってしまうが」
「まぁ、父上さまも、寂しいの?」
まさか父が寂しがる事があるなどとは、椿は思ってもみなかった。
「そりゃあそうさ、本当はね、私は椿にはずっとこの邸に居て欲しいんだよ。もちろん安芸にもね」
「ふふ、じゃあ、父上さまも安芸も、みんなで一緒に行けばいいんだわ、それに、隆文も!」
「おやおや……椿は入内を何か勘違いしているようだ」
右大臣が苦笑いすると、ちょうど簀子縁(すのこえん:縁側)の方に人の気配がした。
「隆文!」
椿は父親の腕をすり抜けて飛び出すと、簀子縁まで走っていった。
「兄さま?」
安芸が後に続いて駆けていく。隆文は安芸の兄で、この時十四歳の少年だった。右大臣がやれやれ、とため息を漏らしていたが椿は知る由も無い。ばたばたと駆けて行って、そこに居た少年……隆文の着物の裾にまとわりついた。
「姫君……っ! それに、安芸も! なんですか、ばたばたと走り回って、はしたない。特に姫君はまだお小さいとは言え、このような端近に寄るものではありません! ほら、中へお入りになって……!」
「まぁ、隆文ってばうるさい事ばかり言って。ねぇ、この前、兄上様の方の対で、蹴鞠(けまり)をしていたでしょう? あたくしもやりたいのよ、教えてちょうだい?」
椿が言うと、少年は袖で頭を抑えるようにして嘆息した。
「……何を言っているのですか。蹴鞠などと、姫君がなさって良い訳が無いでしょう。駄目です」
「まぁ、けちんぼね」
「そういう問題ではありませんよ! とにかく、中へお入りください!」
隆文が青筋を立てているのを見て、椿はしぶしぶ中へ入ろうと安芸の手を引いた。
「全く……安芸も、きちんと姫君をお止めしなければ駄目だろう」
叱られた安芸はしょんぼりとして涙ぐんでしまった。
「まぁ、隆文! 安芸を怒らないでよ!」
椿は安芸を庇うように背中に隠した。すると、さらにその後ろに右大臣が立つ気配がある。
「父上さま」
「大臣(おとど)」
隆文は慌てて跪き、頭を垂れた。
「はっはっ、こちらの姫君たちは元気いっぱいでね、楽しくて良いよ。さすがに、蹴鞠はさせられんがね。遊んでやってくれんかね」
「は……っ。その前に、私は大臣に言付けがあって参ったのです」
「ん? 蔵人所(くろうどどころ:宮廷の事務全般を行うところ)からかね?」
隆文は昨年元服(げんぷく:男子の成人式)を済ませ、今は所の雑色(ところのぞうしき:蔵人所の雑用係)として宮廷に出入りして働いている。しかし母が椿姫の乳母を勤めた縁で右大臣邸に住まっており、右大臣家の従者もしているので、蔵人所からの簡単な言づて等はこうして隆文が持ってくるのである。
「はい。来月の歌合せの事で打ち合わせがあるので、内裏にいらっしゃるようにと……」
「あぁ、そういえば。すっかり忘れていたな……面倒な」
ぶつぶつ言いながらも、やはり出かけなければならないのだろう、渡殿の方へ向かった。
「じゃあ隆文、この姫君達を頼んだよ」
右大臣が出て行くと、椿はうきうきと隆文に飛びついた。
「ほら、父上さまのご命令よ、遊びましょ! 安芸、お人形を持ってきて……あぁ、隆文は絵が上手だからやっぱり絵を描いてもらいましょうか」
「それじゃあ、紙と筆を用意しますね」
安芸も楽しそうに準備を始める。
「はぁ……。はいはい、何でもお付き合い致しますよ」
椿は隆文にとても良く懐いていた。安芸と隆文と三人で遊ぶのが、椿は何より楽しかった。
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