十.



 まだ格子を降ろすには早い時間だったが、安芸に格子を降ろさせ、退出させた。夕暮れの橙の光が差し込む部屋で一人、物思いにふける。

(考えても、仕方のない事だけど……)

 自分の身の上について、何も知らないところでどんどん決められて行く運命が、椿には不思議だった。

(嫌じゃないわ)

 言い聞かせるように口の中で呟く。嫌ではない。女性として、最も誉れで幸福な事なのだから。しかしどうしてか切なさが込み上げて止まらない。

 ふうっと深いため息をついたところで、格子の向こう側から、咳払いが聞こえた。

「姫……」

「え……隆文?」

 呼び出した訳でもないのに、隆文が椿の部屋をたずねて来るなど珍しい。物思いに耽っていた事も忘れて、椿はうきうきと声を弾ませた。

「開いてるわ、入って」

 椿が言うと、妻戸が引かれて、青直衣の美しい公達が姿を見せる。隆文は几帳の前まで来ると、一礼して膝を突いた。

「珍しいわね。どうしたの? 今日は琵琶の指南の日では無かったわよね?」

 椿は十日に一度程の周期で、隆文から琵琶の指南を受けている。実際のところ琵琶を習いたいなどというのは建前で、ただ隆文に会いたいために頼んだ指南役であった。そうでもしなければ、隆文は定期的に訪ねて来てなどくれないのだ。しかしそれも長く続けているせいで椿は今では琵琶も一流に弾きこなせるようになっていた。

「……高成さまに泣きつかれまして」

「え?」

「……これを」

 そう言って、隆文が差し出したのは薄紫色の御文。

「……それってまさか……左兵衛佐から……?」

 隆文がうなずくのを見て、椿はかっと頬を染めた。いままで、椿はたくさんの恋文を受け取ってきた。しかし隆文が文使いを勤めた事は一度も無く、隆文の手から、他の公達の恋文を受け取るなどという事があろうとは、考えたことも無かったのだ。

「何を考えているのよ、兄上は!」

 無意識に怒気を含んだ声が漏れる。

「……私の頼みであれば、椿様も返事を書かれるだろうと……、高成様が」

「どうしてよ!?」

「……」

 隆文は頭を下げたままで動かず、それ以上は答えない。

「……あ、あたくし、隆文から、文なんて受け取りたくないわっ! 持って帰って!」

「……せめてお受け取り頂けませんか……」

「嫌よっ!!」

 返事どころか受け取りもしないとすれば、隆文は兄に責められるかもしれない。しかしそれならそれでいいと椿は思った。責められて、二度とこんな真似をしなければ良いと。

「……どうしてそこまで、お厭いになるのですか……?」

「だって……!」

「お返事は返さないまでも、いつもはお受け取りになっているでしょう」

「……っ、そ、そんな事、隆文は知らないくせに……っ」

「知っています。安芸に聞いていますから」

「……!」

「……私の届けた文だから、受け取れないという事ですね……?」

 隆文は頭を下げたままの姿勢で、表情は見えない。声はいつも通り静かに落ち着いていて、隆文が怒っているのか悲しんでいるのか、椿には全く読む事が出来ず、波のような不安が押し寄せた。

「た、隆文……。だって……あたくし……」

「……私をお嫌いなら、そう……」

「そ、そんな事無いわっ!」

 椿は思わず身を乗り出すようにして、両手を床についた。……むしろその、逆なのだ。しかし口に出す事も出来ず、もどかしく几帳越しの隆文の姿を見つめると、その身体が小刻みに震えているのに気づいた。

「お、怒ってるの? ……隆文……」

 まさか怒りで震えているのでは、と椿が不安にかられたとき、隆文はふっと顔を上げた。

「……いいえ?」

 ……楽しげに、笑っていた。

「相変わらず、お可愛らしいと、思っていたのです」

 そう言って、くすくすと忍び笑いを漏らす。

「ま、まぁ……っ!!」

 椿は真っ赤に染まった顔を扇で隠した。几帳越しで、こちらの姿は見えていないと分かっていても、そうせずにいられなかった。

「あ、あたくしを、からかうなんて……っ!」

「……からかっている訳ではありませんよ、本気でそう思っているのです」

「……っ」

 椿にはもう返事を返すことが出来なかった。

「姫が私を嫌うはずが無いこと、私はよく存じています」

 やっぱりからかっているんじゃない、と言い返そうとしたが、ふっと扇を下げて見た隆文の顔が思いのほか真剣だったので、言うことが出来なかった。

「……隆文……?」

「……では、こちらの文ならば、受け取って頂けますか」

「え……?」

 隆文は懐に手を差し入れて、もう一通の文を几帳の前に差し出した。薄桃色の料紙の御文。椿は文に目を落とし、眉をひそめた。

「……どなたから?」

 やはりどうしても隆文の手から文など受け取りたくは無い。

「……」

 隆文は少し視線を泳がせて、口元を隠すように手をあてた。

「……?」

 そんな仕草をする隆文を見るのは珍しい。隆文はいつも冷静で優雅で、大人で……。

「隆文?」

 戸惑うような仕草は一瞬で、隆文はすぐに手を膝へ戻し、視線をまっすぐこちらへ向けた。もうそこには、いつもどおりの美しい微笑が浮かんでいる。

「……私からです」

「……え」

 何を言われたのか、分からなかった。

「……私からの文です、姫。……受け取って、頂けますか?」

 椿の握っていた扇が、するりと抜けて床を叩いた。



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