十一.



「……どういう、こと……?」

 心臓がどくどくとうるさいほどに脈打っていた。落とした扇へ伸ばした指先が震えて、上手く拾い上げる事が出来ない。

「……それは。口に出して説明しなければなりませんか、姫?」

「だ、だって……」

 椿はもうずっと、幼い頃から隆文のことが好きだった。それが幼い憧れなのか恋なのか、椿自身にも分からない。ただ純粋に、とても好きだと思う。

 しかし隆文にとって自分は、単なる主家の姫であり、幼い子供と思われているのだろうと、椿は信じていた。まさか隆文が自分に文をくれるなどとは……。

「だって隆文は、隆文は……」

「姫のお姿を拝見できなくなって久しい。……寂しく想っている事に、気づいては頂けなかったでしょうか」

「……そんなの、だって隆文は呼ばなきゃ来てもくれなかったじゃない……」

「私の身では、呼ばれもしないのにこの部屋を訪れる事は許されませんよ」

 喜びに弾んでいた胸の鼓動に、ずきりとした痛みが混じる。

「……そう……身分が……」

 ほんの一瞬だけ忘れかけた、厚い壁。二人の間には超えてはいけない高い壁がある。……それに。

「それにあたくしは、春宮に……入内が」

 隆文はぴくりと眉を上げた。

「……そのお話、どちらでお聞きになりました。……まだ姫君にはお伝えされていないはず……」

「隆文は知っていたの?」

「……はい」

 右大臣家の家司を勤める隆文が知っていたとしても当然の事だ。しかしそれならばなぜ隆文は、文などを。

「しかし姫、そのお話はおそらく上手くいかないでしょう」

「え……?」

「大臣はこのお話を進めたいとお考えです。……しかし春宮が……」

 隆文は言いずらそうに口ごもった。

「なあに? 春宮は乗り気では無いの?」

 隆文はうなずいた。

「……春宮は、春先にご結婚されたばかりの大納言の姫へのご寵愛が深く……他の姫に興味を持てないと、はっきりおっしゃられているのです」

「まあ」

 椿は目を見開いた。

「……そんな事、許されるのかしら……」

 春宮という身にありながら、大臣家の姫を迎えるのを嫌がるなどとは、身勝手が過ぎるというもの。

「父上が許すはず無いわ……いずれは折れるのではないかしら」

「それが……他の姫を迎えるくらいなら、春宮位を退くとまで言われて……。大臣も、困惑しておられます」

「……」

「私は春宮のご気性を良く存じています。……おそらく絶対に、譲りません」

「……」

 その言葉を信じてよいものか。椿には判断できなかった。春宮その人を知っているわけではないし、右大臣家の権勢に抗って、入内を断ることなど出来るのか。いぶかしんで首をかしげていると、隆文が声をかけてきた。几帳越しではあるが、まっすぐに椿を見つめている。

「……姫。……姫はそこまで入内をお望みなのですか……?」

「え……?」

 ……望んでいるという訳ではない。ただ華やかな行列に憧れ、甘い幻想を抱いていた幼い頃とは、違う。政略結婚の意味も分かっているし、後宮へ上がれば辛いことも多いだろう事も。しかし、いずれは政略結婚しなければならないのなら、女御として時めくのが、一番良いのではないかと漠然と思っていた。

「……いいえ……。でも、このまま恋もせず……、父の選んだ相手と結婚するなら、どうせなら春宮が一番良いと思っていただけよ……」

 恋もせず、というのは嘘だと、椿は思った。たった今、激しく高鳴った胸の鼓動で思い知らされた。目の前に座る美しい公達に、自分はもうずっと、恋をしているのだと。……それは幼い憧れなどではなく、本当の、恋。あまりに違いすぎる身分差に、ずっと気づかない振りをしてきた。

「……恋もせず、ですか」

「……ええ」

「……では私は少し、思い上がっていたようですね」

「……っ!」

 隆文はどうして急にこんな事を言い出したのだろう。嬉しいのに苦しくて、椿は混乱した。椿にはどうしても、隆文との将来を、考えることは出来ない。見つめていれば、胸が苦しくなるほどなのに、告げることは到底出来ない。……二人の間にある壁に、隆文が気づかない訳は無いのに。

「……来年には、私は五位に、なれるでしょう……」

「え……」

「主上(おかみ)が直々に、私に耳打ちされたのです。来年にはきっと、お前を五位の蔵人に、と」

 五位といえば、しつこく文を送ってくる権大納言家の左兵衛佐や、兄・高成と同じ位(くらい)。将来を約束された家柄の若い二人と隆文では比べるまでも無いが、それでも五位は上流貴族と呼んでよい、立派な貴族の一員である。

「私は今上(きんじょう:今の帝)が春宮であられた頃から、尽くしてきました。……目をかけて頂いているのです……。姫、それでもまだ、私の身が姫に相応しくない事は重々承知の上です。……しかし私は今まで、左兵衛佐殿や他の公達が、姫に恋文を送るのを、苦しい思いで見過ごして参りました。……どうか私に、情けをかけて頂けませんか?」

 隆文はもう一度薄桃色の文に手を添えて、椿の方へ促した。



<もどる|もくじ|すすむ>