六十.
くちびるに、隆文の体温。暖かい、肌の感触。一体どれだけそうしていたのか、唇がはなれると、椿はその場に崩れるように座り込んだ。と、同時に隆文もゆっくりと腰を下ろす。
「「はぁ……」」
二人そろってため息を漏らし、思わず顔を見合わせる。隆文は、ふっと笑った。
「すみません、なんだか舞い上がってしまって。……私らしくありませんね?」
椿もつられて微笑む。
「いいえ、謝らないで。……舞い上がってるなんて、あたくしの方が、ずっとよ」
隆文の腕が伸びて抱き寄せられ、椿はもたれかかるような姿勢になった。心臓が、痛いほど高鳴って、もう熱が出そうだ。
「た、隆文……あたくしの……せ、背の君(夫)に……なって、くれるの?」
「……姫が……お許しくださるのなら」
「あぁ……もう、姫じゃなくて、さっきのように呼んでちょうだい」
「……なんだか、……悪い事をするようで」
「まぁ。悪くなんか無いわ。もう、隆文は家の家司(けいし)では無いんだもの。もうあたくし、主家の姫では無いのよ?」
「……しかし……」
隆文はまだためらうように言葉を濁し、椿の髪を手にすくってもてあそんでいる。椿はじれて身を捩り、隆文の胸元に手をあてた。
「隆文、隆文。あたくしは本当に……貴方の、事が」
そこまでで、手の平で口を塞がれた。
「……少し、待ってください。……はぁ……。身が、持ちません」
大きなため息を落として、まぶたを閉じる。
「まだ、緊張しているんですよ」
そう言いながら微笑んで、離れた隆文の手は、僅かに震えていた。
「まぁ」
驚いて椿は隆文の手を握り、二人、顔を見合わせて微笑みあった。
そのうち、隆文はふと真顔になった。
「姫、私は……姫のためだったとは言え、目的の為には手段も選ばず酷い振る舞いもする、酷い男です。それに、やっと五位になったとはいえ、血筋からいってもそう高い位にまで昇る事はないでしょう。……望めば女御にも、中宮にもなれたかもしれない貴女には、遠く及ばない身です……」
「……?」
いまさらな事を言い出した隆文に、椿は眉を寄せる。
隆文は口元に指をあてて、軽く咳払いした。優しい目がまっすぐに椿を見つめている。
囁かれた低い声は、少しだけ掠れていた。
「それでも私と……妹背(いもせ:夫婦)になってくださいますか? ……椿……」
どくんと、心臓が跳ねて、きゅっとまた、全身が脈打つ。
微かに震える唇を、椿はゆっくりと開いた。
「……はい……」
やっと返事をすると、強く引き寄せられ、苦しいほどに抱きしめられた。
「我が恋は 初元結(はつもとゆい)の 濃紫(こむらさき) いつしか深き 色に染まりて
(私の初恋は、いつの間にこんなにも深い想いとなったのか……)」
耳元に囁かれた歌から、万感の想いが伝わってくる。椿も顔を上げて、応えた。
「君により 心に染めし 色深く やむ時もなく 恋ひ渡るかも
(貴方のおかげで想いは深く心に染みて、休む間もなくずっと、恋し続けます……)」
こうして二人は晴れて結ばれ、末永く幸せに暮らしたとか――。
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