五十九.



 ぶつかるようにして、青い直衣の胸元を掴むと、隆文の腕がふわりと優しく椿の肩を包んだ。

「隆文……本当に? 来てくれたの?」

 にわかには信じられず、確かめるように椿は隆文を見上げた。

「はい。……お待たせしてすみません。……お許しください」

「まぁ! 許すも何も……もう、もうあたくし二度と逢えないのかと思って……ううん、この数日は本当に辛かったわ。でも、いいの。逢えたからもう良いのよ。……あぁ……本当に隆文なのね」

「ええ……本当に」

 こたえながら、隆文はくくっと忍び笑いを漏らした。

「なぁに?」

「姫は相変わらず、お可愛らしいですね。まるで昔に戻ったようだと思ったのです。……私がこうしてこちらの部屋を訪ねると、いつも私の足元に飛びついてきて……」

「ま、まぁ! あたくしもう、そんなに幼くないわ! あの、今はその、少しはしたなかったけれど……」

 急に、隆文を間近に見上げているのが恥ずかしくなって、椿は慌てて身体を離そうと身を捩った。本来ならば、御簾や几帳を隔てての対面が当たり前なのだ。いきなりこのように飛びつくなど、童(わらわ:子供)でもなければありえない。

 しかし離れようとしても隆文の腕は意外と力強く、椿は身動きが出来なかった。

「……隆文?」

 困惑して見上げたが、隆文は先ほどと変わらない微笑を浮かべている。

「……離しがたいのですが。お許しくださいませんか」

「まぁ」

 椿はかぁっと頬が熱くなり、軽いめまいを覚えた。思わず足元がふらつくと、隆文の腕にひょいと押されて、椿は胸に顔を押し当てるような格好になる。

「きゃ」

 直衣に焚き染められた香が強く鼻先で薫ると、椿の心臓は飛び出しそうな程に跳ねあがった。

「姫……椿姫。もうずっと……ずっと、こうしたいと思っていました」

 どくどくと鳴る心臓の音が、隆文のものなのか自分のものなのか、区別がつかない。

「幾度も諦めようとして、叶わず……。身の程もわきまえずに、それでも何とか姫と釣り合う身分を手に入れようと、必死に働きもしました。……姫がいよいよ入内なされるとなった折には、私は本当に姫を諦める決意もしたのです。ですが……姫」

 少し緩んだ腕に促されるように上を向くと、隆文は眩しそうに目を細めて椿を見下ろしていた。

「他でもない、貴女に止められた。私はやはり、諦められなかったのです」

「隆文……」

 諦めないでくれて良かったと、心から思う。

「今こうして逢っているのが夢のようです」

「あたくしも、夢のようだわ……」

「後は……私の念願が叶えば、これ以上の喜びはないのですが」

「念願……?」

「はい。……大臣からもやっとお許しを得ました。『椿の事はおまえに任せる』と。それに、貴女からの恋文も、先日初めて頂きました」

「あ……」

 先日おくった文の事を思い出して、また恥ずかしさが込み上げる。思わず顔をそらそうとしたが、隆文の手が頬を捕らえて叶わなかった。

「……姫。今宵から三日は、吉日です」

「……!」

 三日。椿の頭を「三日」という言葉がぐるぐると飛び交った。それは、これから結婚する男女が続けて一緒に過ごす、夜の数。

「あ……の……隆、文?」

「私は今日の来るのを待っていたのです。姫さえお嫌でなければ、私は……今日から三日、姫と共に過ごしたいと……」

「! あ、あの、そんな……き、急ではなくって!?」

 突然の事に困惑した声をあげると、

「ええ、そうですね。……少し、姫を驚かせてみたかったのです」

 隆文は悪戯めいて笑った。

「……私はもう、待つ事には慣れています。返事を待つなど易い、いくらでも待ちますよ」

 余裕の微笑み。しかし優しげなその微笑が、今は急に憎らしくなった。

「い、嫌! あたくしはもう、待つのなんて嫌よ……っ! もう、もう少しも離れているなんて、嫌!」

「……姫?」

「あ……」

 もう少しも、離れて居たくない。それは心からの椿の気持ちだ。

「……」

 椿は顔を伏せ、隆文の胸に額をあてた。

「姫……」

 また、頬に手をあてて顔を上に戻される。まっすぐ、ぶつかる瞳。

「……椿……」

 掠れた声で囁かれ、つま先まで揺すぶられるような甘い感覚がざぁっと走る。

 隆文の顔が少しずつ近づいて、椿が身じろぎも出来ずに眺めていると、大きな手の平で目を覆われた。



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