一.
添い臥し(そいふし)とは、高貴な身の男子が元服する夜に添い寝する役目のことで、それはそのまま、結婚を意味している。
時の春宮・幸孝の添い臥しに選ばれたのは、源大納言の一の姫君だった。
「姫……」
弱々しい明かりに照らされた室の中、幸孝はなるべく優しい声音になるようにと気を使って、声を発した。しかし部屋の隅に座った姫君は、ただびくりと身を震わせて、返事も無く扇で顔を隠したままうつむいている。
無意識に幸孝は、ため息をもらした。
姫がこの部屋に現れてから、かれこれ小半時(こはんとき:三十分)も経とうというのに、いまだに姫の声すら聞けない。
もともと細くしてあった灯心の明かりが、いよいよ最後に大きく揺らめいて、ふっと消えた。
薄闇の中、幸孝は首を振って、立ち上がった。
姫は大きく身を震わせて、扇で半分顔を隠したまま幸孝を見上げた。
「どうしてもこちらへおいで頂けないのでは、俺が行くしかないでしょう」
「……」
幸孝が姫のほうへ歩みよると、姫は身じろいで、後ろへ下がろうとする。
(そんなに嫌なら、添い臥しなんかにならなきゃ良いじゃないか……っ!)
貴族の姫君という者は、自分の運命を自分で決められない。この姫も、ただ親の源大納言に言われるがままにやって来たに違いないことは、幸孝も知っていた。
しかしここまであからさまに怯えられると、幸孝としても面白くない。
「そんなに俺が嫌ですか。近寄られるのも?」
姫は身じろぎもせず、ただこちらを見上げていた。目を、見開いているのかもしれない。しかし闇の中ではそれすら良く分からなかった。
添い臥しとして後宮に上がり、そのまま女御として生涯付き合ってゆく人だ。幸孝としても、出来れば仲良くしたいと思っていた。しかしやって来たこの姫は、いくら話しかけても微笑みかけても、ただ震えてうつむいているばかり。
幸孝は次第に、この姫に怒りを覚え始めていた。
「源大納言には、大人しくしろと言われて来たのかも知れないが、俺は別に気にしない。何かひと言くらい、話してくれないか」
ひと言の言葉も交わさないまま抱くなど、とてもそんな気になれない。
「……あの……、春宮、どうぞ末長く……」
とうとう、声が聴けた。美しく、か細い声だった。
しかし声はすぐに涙混じりになり、そのまま途絶えてしまった。
「な、なんで泣くんだ! 俺はまだ何もしてないぞ!」
「……っ。も、申し訳、ありませ……っ」
幸孝は酷くいらだたしくなり、顔を隠した姫の扇を取り上げて、その手を握って引き寄せた。
「……っ」
姫が息を呑む音が、闇の中に痛々しく響く。
「名は?」
普通、貴族の姫君は公に名を明かさない。しかし夫ともなれば話は別で、当然諱(いみな:本当の名)を明かしてしかるべきだった。
「……」
姫はただがくがくと震えていて、口を開く気配も無い。幸孝が握った折れそうなほど細い腕は、血が通っているのかと疑うほど冷たかった。
(これじゃ、まるで俺が一方的に襲ってるみたいじゃないか)
乱暴するつもりなど、ほんの少しも無かったというのに。
幸孝は気を落ち着けるように深く息を吸った。
「名乗ってくれないか、姫。長い付き合いになるんだから、……俺達は」
言って直ぐ、ため息が漏れる。……こんな姫と末永くなど、やっていけるのだろうか。
「あ……。……私、甘菜(あまな)と申します」
「甘菜……」
幸孝は姫の腕を引いて立ち上がらせた。
「こんな床板に座っていても、しょうがないだろう。甘菜、……寝台に」
手を引かれるまま付いて来る甘菜は、哀れなほどふらついていて、幸孝はすっかり呆れてしまった。
「なぁ……添い臥し役だって、分かってて来たんだろう?」
「……は、い……」
答える甘菜の声はやはり酷く震えている。
舌打ちしそうになって、幸孝は慌てて飲み込んだ。
(こんな……怯えきった女を抱かなきゃならないなんて……!)
幸孝はもう何回目かしれないため息をつきながら、甘菜の手を引いて寝台に入った。
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