三十五.
「しょ、少納言っ! これは……っ」
隅のほうに控えている少納言を振り返ると、彼女は恐縮しきっているのか既に平伏して震えていた。
「……お、お止めしたのですわ、春宮……。でも百合様が、これが一番良いのだとおっしゃって……」
「そうよ、一番良い方法でしょ」
ふふふ、と満面の笑顔を向けてくる。
確かに……確かにこれは、最良の方法だった。甘菜と百合は瓜二つ。もともと二人の人となりを知っている者などごく一部に限られているし……、入れ替わってしまえば、百合は桐壺女御として、甘菜は峰平の婚約者として……全てが円満に……誰にも気づかれずに生きてゆける……。
納得しかけて、はっと幸孝は気づいた。
「いや、待て待て! こ、子供はどうするんだっ。皇子(みこ)が生まれる予定なんだぞっ、もう父上も母宮もご存知なんだ! やっぱり出来てませんでしたなんて、そんな話が通るはずないだろっ」
「そうなのよね、それだけが引っかかるのよ」
「そうなのよねって……お前」
「だから急いでつくらないと……ね」
急に照れたのか百合は顔を背けて、耳まで赤くした。
「……」
……呆れた。呆れてものも言えないとは、この事だ。
「……春宮?」
不安になったのか、心配そうに百合が見上げてくる。
「ふっ」
幸孝はつい、噴出した。もう、皇子とかそんな事はどうでも良いことのような気がしてきた。
目の前に、百合が居るのだ。
「百合……」
そっと、包み込むように抱きしめる。
「春宮……」
ふと庇のほうに視線を移すと、慌てて立ち去ってゆく少納言の後姿が見えた。
「百合……俺の名前、知ってるか?」
「え……? えっと……春宮、幸孝親王……」
「そう。ちゃんと呼んでよ」
「幸孝……様?」
「幸孝」
「……幸孝……」
頬を染めて名を呼ばわる百合に、愛しさがこみ上げる。幸孝はそっとその唇に、唇を落とした。
「……急いでつくろう」
「えっ?」
「子供」
「……っ!」
とたんに狼狽する百合を、きつく抱きしめた。
「お前が言ったんだろ」
「だ、だって」
涙目になってうろたえている百合のまぶたにそっと口づけて、にやりと笑う。
「も、もう……っ」
しばらくの間意地悪く、からかうように笑っていたが、幸孝はふと、真顔になって百合の瞳を見下ろした。
「――花笑みに 恋ひてすべなみ 我が心 逢いにし後は 君がまにまに……
(百合の花のほころぶような貴女の微笑みに 恋こがれてどうしようもない私の心 こうして逢えたその後は どうぞ貴女の意のままに……)」
「……、ゆ、幸孝……」
ぼうっと潤んだ瞳で百合が見つめてくる。満足して幸孝は、また深く、百合の唇に口付けを落とした……。
その後、二人は見事に子宝を授かり、多少時期が遅れはしたものの、玉のような皇子をもうける事に成功した。峰平と甘菜も無事に婚姻を果たして、二人の間には姫君が産まれている。
幸せに満ちた日々は、末永く続いたということである……。
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