後宮 三.


 中将は、腹をくくって姫君の部屋の、妻戸の前に立った。
 どうせ兵部卿の宮のように、気の利いた歌など詠めやしないのだ。素直に思いの丈をぶつけるしかない。

「姫君……。起きて、おられますか……?」

 部屋の奥のほうで、衣擦れ(きぬずれ)の音がする。

(起きてる……?)

「……左近の中将です。もし宜しければ、……そのままで、俺の話を聞いて頂きたく……」

 やがて衣擦れの音が近づいて、妻戸の前で止まった。

「はい……」

(……姫が、この戸板を隔てた、向こうにいる……)
 
 そう思うだけで、中将の胸はどくどくと脈打つ。

「あの……姫、俺は……不器用でろくな歌も詠めず……、兵部卿の宮のようには、貴女を楽しませることも、出来ません……。それに兵部卿の宮ほど、身分も高くはありません。それでもただ、貴女を大切にしたい気持ちは、どなたにも、負けないつもりです……っ」

 一息に言って、息をつく。
 内にいる姫君のほうでも、「……あ」と漏らす、声が聞こえた。

「これが最後のお願いです……姫。俺を……受け入れては頂けませんか……? この、妻戸を……」

 そう言って、妻戸に手をかけた。ひと月前まで壊れていた掛け金(かけがね:鍵)は、今ではきちんと直してある。

「掛け金を……、外しては頂けませんか……?」

「……」

 ごく、と息を呑んで、返事を待った。暑くも無いのにひどく汗が吹き出る。

「左近の中将様……。この、ひと月余り……心の篭ったお世話を頂いて……本当に、いくら感謝しても、し尽くせません……」

 美しい姫君の声が聞こえて、それだけで涙が出そうになった。

「姫君」

「本当に……ありがたくて……」

「姫……君?」

 なぜか、姫君の声が、詰まった。……それはまるで、泣いているかのような……。

「中将様。……私は、左近の中将様に相応しい姫ではありません……」

「そんな。そんな事はありません。……あなたのように美しい人を、俺は見た事が無い……っ」

「いいえ。……窮乏の上に育った身ですから、教養も何も無く……。中将様にはとても、恥ずかしくてお仕えなど出来ないんです……」

「で、では、何故……っ」

 これを口に出すのはためらわれる。ためらわれたが、聞かずに居れなかった。

「兵部卿の宮ならば、宜しいのですかっ!? ……やはり、身分を重んじて居られるのですか……っ?」

「……っ」

 息を呑む気配の後……姫の返事は、無い。やはり、そういう事なのだろうか。

「兵部卿の宮と結ばれたとしても、貴女は幸せにはなれない……! 宮は、宮には既に、心に決めた人がいるのです。蝶のようにあちらこちらを飛び回っても、必ずそこへ戻っていくのです」

「……だからです」

「え」

「……」

 姫の言わんとすることが、中将には理解できない。

「俺がこうして姫の元を訪れるのは、今日が、最後になるでしょう……。……お願いです、姫。この、妻戸を……」

「出来ません……っ。……どうぞ、お帰りくださいませ……っ」

 何故だろう。姫の声が、泣いているように聞こえる。

「姫……」

 左近の中将は、妻戸を撫でるように、なぞってみた。

「開けては、くれないのですね……」

「……」

 これ以上、なにも言う事も出来ない。
 ……勝負は、負けだ。東宮もこの様子を見ているだろう。

「姫……。俺はこの先もきっと……姫の事をただ、想い続ける事でしょう……。それだけはどうか……お許しください……」

「……」

 ため息とともに、立ち上がる。
 簀子縁を降りて、茂みに隠れている東宮の元へ向かった。

 ……と。

「左近の中将様……っ!」

 振り返ると、僅かに妻戸が開いて、姫君が顔を出している。月明かりに照らされる、白い、輪郭。闇に溶けつつ、まるでしとどに流れるような、ぬばたまの髪。
 それは錯覚だったかもしれない。姫の頬が、きらりと光った。

「どうか……良きご縁に恵まれて、お幸せになられますよう……。私の事は、お忘れください……」

 そう言うと姫は手を付いて、深々と平伏した……。


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