後宮 五.


 その夜。
 梨壺(なしつぼ:東宮の使っている殿舎)では、東宮の姿が見えないと、ひそかな騒ぎとなっていた。東宮の忍び歩きは今日に始まったことではない。梨壺に仕える女房達には良くある事と分かってはいても、やはりその姿が見えるまで安心は出来ず、皆寝ずに東宮の帰りを待っていた。
 朝までに戻らなければ、それは天下の一大事となるのである。

 しかしまだ日の登るほんの少し前に、東宮は戻ってきた。

「あああっ、東宮!」

 東宮の元へ駆け寄ってきた古参の女房は、眉を吊り上げて東宮を睨んだ。

「おお、お忍びをされるなとは、もう申しません! 申しませんが、何卒誰かにひと言お言い置き下さいませ……っ! 誰も何も知らぬとあっては、こちらに仕える女房ら一同、死ぬほどの思いで御身を心配する事になりまするのですぞ……っ!」

「ああ、悪いな。兵部卿の宮には言ってあったが」

「兵部卿の宮殿は、こちらにはおいでになりませ……」

 まだ激しい剣幕で言い募ろうとする女房の口が、開いたまま、一瞬とまった。

「そ、そちらのご婦人は……」

 口に布を噛ませられ、さらに手も後ろで縛られている。
 背けた横顔は泣き腫らしているのがありありと分かり、東宮に肩を掴まれ引きずられるようにして連れて来られていた。

「ああ、今日から俺が使う女房だ。……ほら、もう俺は顔を見せたんだからいいだろ、お前たちは退れ」

「……ま、まああ」

 あっけに取られた様子の女房の横をすり抜け、東宮は奥の間へ向かった。

 寝台の備えられた東宮の部屋までやって来ると、東宮はようやく女を縛った口と手の布を解いてやった。

 とたん、女は両腕で身体をかばうようにし、ずるずると後ずさる。
 怯えた様子でこちらを見つめる、その面差しは。

(……やっぱり、似てる)

 東宮には、昨年まで寵妃が居た。
 流行病にかかって里下がりし、最後を看取る事も出来ず、そのまま逝ってしまった、桐壺の女御。
 美しく聡明で、心から愛しいと思った、ただ一人の女……。

 左近の中将が惚れたというこの女は、桐壺の女御に何処か、面差しが似ていた。

(……代わりでもいい)

 あれから東宮は、女に興味を示すことが出来なくなっていた。いくつもあった入内の話にもまるで気乗りがしなかった。……しかし、目の前にいるこの女ならば。

(抱きたい)

 そう思える女に、東宮はようやく出会ったのだった。


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