後宮 六.
千夜子には、まだ自分の身の上に起こった出来事が、信じられずに居た。
つい先刻まで、あの優しい左近の中将と、束の間の逢瀬があった。中将には本当に申し訳ないけれど、千夜子は兵部卿の宮を選んだ。そうして、中将に別れを告げたのだ。
その、直後。
千夜子は誘拐された。それはもう本当に誘拐としか言いようがない。叫ぼうとすると口をふさがれ、抵抗しようとする手も縛られて、馬に乗せられたのだ。
なにより千夜子が一番深く傷ついたのは……あの、左近の中将が。それに加担した事。あの優しかった中将が、この乱暴な男に……加担したという、事実。しかしそれは……。
「分からないな……。嫌がっているのか?」
目の前に居るこの男は「東宮」と、そう呼ばれていた。
馬に乗せられ、このひどく大きな建物……おそらくは後宮に入るまで、いくつもの門を潜った。それぞれの門には警護を勤めているらしい侍や公達も居たのに、みな、頭を垂れてひれ伏すだけで、誰もこの男を止めようとはしなかった。
……恐ろしい。
「お願いです、やめて……」
やっとの思いで口に出した言葉も、まるでこの男の耳には届かない。
ただただ恐ろしくて震えていると、男の腕は千夜子の肩を掴み、そのままぐっと後ろへ押し倒した。
「……きゃっ」
頭を打ち付けるかと思ったが、意外にもそれは、男の腕に守られて無事だった。男の顔が目の前に迫る。
「……乱暴に連れて来て、悪かったな」
(……えっ?)
千夜子は目を見開いた。耳を疑う、意外な言葉。
鼻先すれすれにある、男の顔を改めて凝視する。今まで、恐ろしさが先立って、男の顔をまともに見る余裕も無かったのだ。
深い色の大きな瞳。意志の強そうな眉。筋の通った鼻梁。
男は千夜子の手首の辺りをじっと見つめていた。おそらくそこは、縛られて跡になっている……
「ああっ」
その跡の辺りへ、男は唇を寄せた。今までに感じたことの無い、ぬるく柔らかい感触が、手首の内側をぬっとなぞる。背筋にぞっと戦慄が走った。
千夜子は必死に身をよじり、逃れようともがいた。しかし重くのしかかる男の体重が、千夜子の身体を繋ぎとめている。
「い、嫌……っ、嫌だ……っ!」
「なんでだよ」
先ほども、東宮は不思議そうにそう言った。
千夜子の瞳からはぼろぼろと涙がこぼれる。
(……怖い、怖い……っ!)
もうそれしか考えられない。
千夜子はずっと、母と娘の二人で暮らしてきた。市などへ出かければ、水干姿の町人の男と、ふた言三言、言葉を交わすことはあったが、それも、滅多にないこと。
男が目の前に居る、それだけでも緊張するというのに、突然誘拐された上に、この仕打ちは、無い。
以前に受領にさらわれかけた時、あの時も本当に恐ろしかった。……あの時は、左近の中将が助けてくれた。
しかし、今は。
きっと誰も、この男には逆らえない。千夜子を救ってくれる人はもう誰も、居ないのだ。
「お前、泣きすぎだ。……そんな顔じゃ、こっちも冷める」
東宮の顔が……、唇が、目の前に近づいてくる。
「ひ……っ」
目を閉じると、まぶたに、ぬるい感触があたった。それは一瞬、慰められたかのような、不思議な感触。
東宮は千夜子の身体にまわしていた腕を抜き、千夜子の上から身体をどかした。
「……」
「……」
千夜子はまだ身を起こすことも出来ず、東宮の動きをじっと凝視している。いつまた襲い掛かってくるのかと、ほんの少しの動作からも目が離せなかった。
「……ちぇ、お前、風情がないなぁ……」
「ふ、風情……?」
何を言われているのか分からず、ただ千夜子はおうむ返しに繰り返した。
「ここまでされたら、普通諦めて大人しくするだろ。……俺が誰だか、もう分かってるだろうが。歌の一つも詠んで、流れに身を任せりゃいいのに」
そう言いながら東宮は、乱れた直衣(のうし:貴人の普段着)の襟元を整えた。
「な……」
「あーあ、今日は止めた」
東宮はすっと立ち上がると、庇の方に出て行った。
「おい、誰か。あー、周防(すおう)、周防は居るか!」
やがて衣擦れの音がさやさやと響いて、おそらく誰か、女房がやって来たようだった。
「さっき連れてきた新しい女房、……そうだな、俺の衣装は今後あいつに運ばせてくれ。空いてる局(つぼね:部屋)はあるか? ここから一番近い局に入れるんだ」
「あ……新しい女房だなどと……! お家はどちらの方なのです、ご身分は、身元は確かでございましょうなっ!?」
「うるさいな、俺が連れてきたんだ、俺が保障してやる! 文句あるか!?」
「ま、まああ……っ」
女房は憤慨した様子だが、諦めたのか不承不承、こちらへ向かってやってきた。それは先ほど、この部屋へ来る途中で、東宮に激しい剣幕で意見していた、中年の女房だった。
「ま、貴女……」
周防が眉をひそめている。
千夜子ははっとしてようやく身を起こし、乱れた衣を掻きあわせた。腰紐は東宮に解かれて、それは人目に晒すのもはばかられる、ひどい有様だった。
「……お名前は? 何とお呼びすれば宜しいか」
「……」
この場合は、女房名(通常女官は本名を名乗らず、通称を用いる)という事になるのだろうが、千夜子は女房など勤めた経験が無い。まだ震える身体を抱きしめて、ただ黙ってじっとしていると、
「七条だ」
東宮が答えた。
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