後宮 七.


 一夜明けてみても、まだそこは後宮だった。
夢であって欲しいと願っていたのに、浅い眠りから覚めてみれば、やはりそこは、見知らぬ局。
 千夜子は重いため息をつく。

(なんて立派なところなんだろう……)

 壁のどこにも穴もひびもなく、床板も良く磨かれている。局の隅には立派な黒塗りの厨子(ずし:戸棚)が置かれていて、どこかで香を焚いているのか、良い薫りまで漂ってくる。

(母上、どうしてるかな……)

 こんな場所に連れてこられて。
 最近では、兵部卿の宮と左近の中将が下男下女を付けてくれたので、当面は母の面倒を見てくれるだろう。しかし、千夜子が居ないとなれば、二人ともあの屋敷の世話をする義理など無い。すぐにも元通り、誰も居なくなってしまう事だろう。
 母子二人、これまでは千夜子が何とか面倒を見て暮らしてきたのに、あの病弱な母一人屋敷に残されてしまったら、すぐにも儚くなってしまうかもしれない。それに。

(きっと、心配してる……)

 何も告げる暇も無かった。突然姿を消したなんて、どれだけ心痛を与えることになるか。

(帰らなきゃ……!)

 しかしどうやって帰ればよいものか、千夜子は途方にくれた。
 一歩局を出て見れば、恐ろしいほどに長い簀子縁、いくつもある殿舎と、それを繋ぐ渡殿(わたどの:渡り廊下)が見える。

(後宮って、どれだけ広いの……)

 ひどい不安に襲われて立ち尽くしていると、簀子縁の向こうから、立派な装束を着た女房が数人、こちらへ向かってやって来るのが見えた。
 先頭にいるのは、昨日この局へ案内してくれた、あの周防という人だ。

「あら七条殿。いま、起こそうと思っていたのです、夕べは眠れましたか?」

「は、はい……。あの……」

「もう昼ですが、今日はこれから東宮の御寝所の御格子(みこうし:上下開きの戸板。窓のようなもの)を上げに参ります。あなたもお出でなさい」

「え、はぁ……」

「でもまずはその前に、着替えて頂きます。さ、皆様」

 周防が後ろにいる女房に合図すると、すぐに千夜子は局に押し戻され、着ていたボロの衣は剥ぎ取られ、目にも鮮やかな袿(うちき)に、唐衣(からぎぬ:正装用の衣)が重ねられていった。

(お、重……っ)

 千夜子はこんな立派な装束を、これまでに着た事はおろか、目にしたことすらない。

「ねぇ、七条さん」

 裳(も:腰から後ろへ垂らす衣)を結んでくれている女房が、親しげに話しかけてきた。

「貴女、何処から来たのかもご身分も何もかも、秘密なんですってね。不思議だわ。普通、後宮へ来るにはそれなりのツテが必要なのに、あなた直接、東宮のお声がかりでいらしたんですって?」

「えっ? ええ……まぁ……」

 お声がかかりも何も、直接さらわれて来たのだが。そのあたりは伏せられているのだろうか。周防がじとりと女房を睨んだが、気づかないのか、そのまま楽しげに話しかけてくる。

「ねぇ、お年も秘密なの? あ、私は少外記(しょうげき)。十六よ。こちらへお仕えするようになってからは二年になるの。貴女、とってもお綺麗だけど、何処かで……」

 話を遮るように、周防が咳払いをした。少外記は肩をすくめて口を閉じる。

「……少外記さん」

 千夜子は周防には聞こえないよう、控えめな声で答えた。

「私も、十六……」

 少外記はぱっと微笑んだ。


 皆、千夜子と同じような重い装束を着ているはずなのに、身のこなしが上手い。しずしずと衣擦れ以外の音は立てていないというのに、歩く速度は普通だった。千夜子は初めて身に纏った重たい装束の裾も上手く捌けず、ついていくのがやっとだ。

「東宮は寝起きが悪くていらっしゃるから。今日はもう昼だから大丈夫だと思うけど……ご機嫌が悪いと衾(ふすま:掛け布団)が飛んでくるのよ」

 ひそひそと少外記が耳打ちしてくる。

 千夜子の局から東宮の寝所までは、ほんの目と鼻の先の距離だった。

 ……かたん、かたん。
 音を立て、周防と少外記の手で格子があげられる。

 部屋の中へ入っていくと、まだ東宮は下げられた御簾の向こう、寝台の中におさまっているようだった。

「東宮。もう朝餉も冷え切ってしまいましたよ。いい加減にお目覚めくださいませ」

 周防が声をかける。

「……んん、朝か……?」

「昼ですわ、東宮」

 ふと後ろを見てみると、いつの間にやってきたのか、入り口のほうには手水(ちょうず:洗面)のための半挿(はんぞう:器)を抱えた女房と、朝餉を抱えた女房が控えていた。

「ふあ……」

 東宮が身を起こす気配がする。千夜子は周防と少外記の後ろに控えていたが、それでも昨夜の事が思い出され、嫌な汗が吹き出た。……恐ろしい。

「……ちぇ、まずいなぁ……。今日も朝議さぼっちまった……。そろそろ左大臣あたりにどやされるな……」

 ぼやきながら、立ち上がる気配。
 それに合わせるように、周防は御簾の中に入っていった。続いて少外記も入っていく。

(ど、どうしよう……)

 千夜子は続くことが出来ず、そのまま立ち尽くしていた。

「……七条は」

 不機嫌そうな、東宮の声。千夜子はびくりとして背筋を伸ばした。

「七条殿!」

 周防の呼ぶ声がする。

「俺の着替えはあいつにさせるって言ったろ」

「申し訳ございません。……これ、七条殿!」

 嫌だけれど。
 千夜子は諦めて、御簾のうちに入っていった……。


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