後宮 八.
おずおずと御簾のうちに入っていくと、目が合った東宮はすっと目を細め……ひどく、意地の悪い笑みを浮かべた。
「よう。ひどい顔だな七条」
「……っ」
確かに昨日は泣きすぎたせいで、まぶたが重い。きっと腫れてひどい顔をしているのだろうが、誰が泣かせたと思っているのだろう。
(東宮のせいじゃない……っ)
千夜子はぐっと唇を噛んだ。
「さ、七条殿、東宮に直衣をお着せ申し上げるのを手伝って下さいな」
周防はそう言って東宮の前に立った。
「え、あの、直衣ですか……?」
千夜子は公達の着る直衣になど、触れたこともない。
「……あら……。では、今日のところは見ておいでなさい。……少外記殿」
「はい」
少外記は東宮の後ろに回りこみ、二人はてきぱきと衣を合わせたり紐を結んだりして、東宮の身に直衣を着せていった。
(こんなの無理だ……)
公達に衣服を着せるところなど初めて目にしたが、千夜子にはとても真似できそうに無い。ただ呆然と見ていると、東宮はまた意地の悪い笑みを浮かべていた。
「いい、七条は。やっぱり着替えは無しだ。運ばせるだけでいい」
「まぁ、東宮。そういう訳にはいきませんわ。こちらにお仕えするのであれば、これくらいは……」
「いいんだよ。こいつには何にもさせなくていい」
「ま」
周防は不審げに目を細めて千夜子をちらりと一瞥した。
それはそうだろう。身元も何もかも不明なまま、突然東宮が連れてきた女だ。その上、何もしなくて良いなどと、怪しまれて当然である。
少外記も、周防ほど露骨ではないが、やはり訝しげな顔をしていた。
(……帰りたい……)
ここは千夜子が居るべき場所では無い。身の置き所も無くうつむいていると、やがて着替えを済ませた東宮は、朝餉を取るようだった。
「お前達、みんな下がってくれ。……七条だけ残れ」
「!」
周防らは皆また怪訝な表情をしたが、一礼すると下がっていった。
二人きりになると、否応無く昨夜の事が思い返される。
(嫌だ……。帰りたい……)
「こっち来いよ」
手の平が汗ばんで、めまいがしてくる。
「……食うか?」
「は?」
東宮は朝餉の膳から青菜を箸でつまみ、千夜子の方に向けていた。
「もう朝餉は済ませたのか?」
「……い、いえ……」
「じゃあ、ほら。そこへ座れよ。……大体いつも量が多すぎるんだ。お前も食え」
「……」
一体、東宮は何がしたいのだろう。呆然と立ち尽くしていると、いらだったのか東宮は声を荒げた。
「来いって」
逆らうわけにもいかず、千夜子は膳をはさんで東宮の前に座る。すると目の前に箸でつまんだ青菜を差し出された。
「え……?」
「口、開けよ」
「は、はぁ……っ? ちょ……っ、まさか東宮に食べさせて頂く訳にはまいりま……んっぐ」
言いかけたところに無理やり押し込まれた。
(……なんなの……っ!?)
思わずむせそうになったが、なんとか噛んで飲み込む。
「旨いだろ?」
東宮は満足そうにそう言うと、次のおかずに箸をつける。
「と、東宮……。どうして私を、連れて来たんですか……?」
「……気が向いたから」
東宮には全く悪びれる様子も無い。
「そ、そんな……私、宮仕えなんて、とても出来ません……っ。家に帰してください……っ」
「別にいいんだよ、何にもしなくて。言ったろ? ただ衣を運ぶ程度でいいんだ」
「で、でも……っ」
「うるさいな、言っとくがお前に拒否する権利は無いんだぞ」
「……っ」
なんて横暴なのだろう。いくら東宮だとはいえ、ただの気まぐれで人をこんな目に合わす事が許されるのだろうか。
「でも、……家には、病がちの母が居るんです。私が居なくては、母上はどうなってしまう事か……」
「……」
東宮はぴくりと眉をあげ、千夜子を見やった。
「それは何とかしてやる……。表立ってはできないが、そうだな、誰か……ああ、兵部卿の宮にでも頼んでおくか」
兵部卿の宮。……そうだ、千夜子は昨日、兵部卿の宮に恋文の返事をしたところだったのだ。突然姿を消したりして、一体どう思われることか……。
しかし今はそれよりも。
「東宮。……私達、いままでずっと母子二人で暮らして来たんです。 こんな……別れの挨拶も何も無く、突然離れ離れに暮らすなんて、出来ません……っ」
「諦めろ」
ごくあっさりと、短くこたえた東宮に、返す言葉も見つからない。
「……ひどい」
「……」
東宮は無言のまま、箸でつまんだ小魚を目の前に突き出した。
「食えよ」
「……っ!」
千夜子はふいっと顔を背け、立ち上がった。
(何て自分勝手なんだろう……! 東宮だったら何もかも許されるっていうわけ……!?)
千夜子は恐ろしさよりも何よりも、今は怒りが込み上げて止まらなかった。
「……私、東宮の思い通りにはなりません」
声が震える。込み上げるのは、恐ろしさと怒りとが混ざり合った、複雑な思いだった。
「なんだと」
本来なら、こんな事は絶対に許されない。東宮とは日の本の皇子。東宮に逆らうことは帝に逆らうことであり、それは国に背くという事だ。
何より身分を重んじる母に教え込まれた、それは世のことわりである。
しかし千夜子はこの時、決意した。
「私の事をもてあそびたいなら好きにすればいい……っ、それでも絶対に私は、東宮の事を尊敬しない、軽蔑します……っ!」
「お前」
がたんっ。
叩きつけるように箸が置かれ、東宮が立ち上がった。
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