後宮 九.


「自分が何を言ってるか、分かってるのか……?」

 千夜子は顔を背けたまま、じっと床板を睨んでいた。……もう、どうなってもいい。

「俺に背くって事は、ひいては帝に叛意(はんい)ありって事だ。分かってんだろうなっ」

 言いながら、東宮は千夜子の袖をひっぱり、無理やりに東宮の方を向けさせた。拍子に足元の食膳が倒れ、汁物も干物もあたりに飛んでこぼれる。

「……わ、分かっています。……それでも、私は貴方を、尊敬できない」

 千夜子は顔をあげ、東宮をきっと睨んだ。

「私は貴方が、嫌い……っ」

 かっと東宮の目が凄みを帯び、千夜子はどんっと突き飛ばされた。よろよろとよろめいて、尻餅をつく。

「下がれ……っ」

「……っ」

「下がれよ……っ!」

 千夜子は這うようにして御簾を潜り、東宮の部屋から転がり出た。
 すると、簀子縁をばたばたと、こちらへ向かって早足でやって来る周防とはちあわせた。

「七条殿、今の音は何です!」

 血相を変えている。
 千夜子が何も答えずにいると、周防はさっさと東宮の部屋の中へ入っていった。

「東宮、大事ありませんか!? まぁ……っ、この御膳はどうされたのですっ」

 周防の声を聞きながら、千夜子は逃げるように簀子縁を走った。

(……逃げよう……っ、こんなとこ、逃げ出さなきゃ……っ)

 母一人、子一人。都を落ち延びて、どこかの尼寺にでも逃げ込めばいい。
 まさか追っ手を差し向けられるような事は無いだろうけれど、東宮に背いた身の自分は、もう貴族の端くれとして、都になど住んでいられない。
 こんな無礼を働いた事を母が知ったりしたら、きっと泣いて悲しむに決まっているけれど、それももう済んだ事だ。

(ごめんなさい、母上……)

 千夜子はとにかく後宮を抜け出そうと、闇雲に殿舎を走った。


 しかし後宮は、千夜子の想像以上に広かった。
 どれだけの殿舎があるのか、出口は一体どこにあるのか、千夜子にはそれすら分からない。

 通りすがる女房達が、皆不審そうに千夜子の事を振り返った。
 絶望しそうな不安の中、

「えっ貴女……」

 どこかで聞いた声に、振り返る。

「やっぱり……! 姫様……っ!?」

「ゆ、由紀……っ!」

 思いがけない見知った顔に、千夜子は泣きたくなるような安堵を覚えた。


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