後宮 十.
由紀に昨夜からの事情を話し、どうしても家に帰りたいと告げると、由紀はそれはそれは驚いた様子だったが、それでもとりあえずは由紀の局に、千夜子を匿ってくれる事になった。
重い装束を脱ぎ、由紀が台盤所(だいばんどころ:台所)から持ってきてくれた食べ物を食べて、千夜子はようやく落ち着くことが出来た。
「東宮にも困ったものですわねぇ。……でも、新参の女房の一人、居なくなったところでそんなに騒がれもしませんでしょ。しばらくはこちらに身を隠して、ほとぼりが冷めたころに私が外へお連れしますわ」
「由紀……! 本当に本当にありがとう……。迷惑かけて、ごめんね……!」
「でも姫様……。本当に、宜しいんですの? 女房とはいえ、東宮のお手が付くなんて幸運は、滅多にないことですのよ。それを捨てて、……尼に、なるだなんて……」
「そんなの……っ」
あの東宮の手が付くなどと、考えただけでおぞましい。
「どうせもう無理よ。さすがに東宮だってもう私を見限ったはずだもの」
「でもねぇ……」
「もうあの家にだって住んでいられないわ。尼になるか、いっそ町人になって暮らすわ。……そうよ、最初からそうしてれば良かったんだわ。兵部卿の宮様やら左近の中将様やら……雲の上の人達が家へ来たりするから、東宮にも目を付けられたんだもの。もともと断絶したも同然の宮家だったんだから、あんな家にしがみつかずに、捨ててしまえば良かったのよ」
「ひ、姫様……何もそこまで」
「……母上がいらっしゃるから、さすがに町人になるのは難しいと思うけど……やっぱり私、尼になるわ」
「……」
由紀はさも残念そうな顔をしていたが、諦めたのか、慰めるように千夜子の手を握ってくれた。
「……姫様。ようく考えて下さいませね。どうしてもとおっしゃるなら、知り合いの僧都もいます。由紀はお味方しますから」
「ありがと、由紀……」
千夜子はようやく安堵して、微笑む事が出来た。
しかし、その夜。
「たっ、たっ、大変ですわ、姫様……っ!」
昨夜はろくに眠れなかったので、今日は早いうちに寝てしまっていたのだが、由紀によって揺り起こされた。
「な、梨壺の女房の方々は皆さん総出で七条殿を探しております。東宮がそれはもうお怒りだとかで……。女房一人探すのに表立っては騒げないので、皆様それぞれにご機嫌伺いだとか称されてあちこち回ってらっしゃるようですけど……そのうちこの貞観殿(じょうがんでん)にもいらっしゃいますわよ。不味うございますわ、姫様」
(……なんで)
『嫌い』とまで言って退けたというのに。
(これ以上、一体なんの用があるって言うのよ……っ)
無礼を働いた罪を、詮議しようとでもいうのだろうか。
「どうしましょう姫様。すぐにもお逃げになりますか? ……こうなってしまっては、上手く抜け出せるか、分かりませんけど……」
「……いいわ。私、梨壺にいく」
「えぇっ!?」
「ここに居たら、由紀に迷惑がかかるもの。……大丈夫よ、私、東宮に何されたって、平気……。犬にでも噛まれたんだって、思う事にするから……っ」
内裏の造りや門の場所については、既に由紀に教えてもらった。きっと、隙さえあれば一人でも抜け出せるだろう。
もし今夜、東宮に乱暴を働かれたとしても……それは今夜だけ、我慢すれば良いことだ。千夜子は覚悟を決めて、立ち上がった。
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