塗篭の姫君 一.
食事は朝と夕方(当時、食事は一日二回が一般的)に、規則的に運ばれてきた。
脇息(きょうそく:ひじ掛け)も茵(しとね:座布団)も用意され、灯台に鏡台まで用意されて。それはまるで……。
(姫様みたい……)
午前中には髪を梳きに、女房がやって来る。時折は、退屈しのぎにと、碁やすごろくの相手をしに、少外記が訪ねて来る事もある。
そこが狭い塗篭で、外から錠を掛けられていることを除けば、それは破格の扱いであった。
しかし千夜子が塗篭に閉じ込められて三日も過ぎると、梨壺の女房達の聞こえよがしな嫌味も聞こえ始めた。
「どうして私達があんな素性もしれない女に、膳を運ばなきゃいけないのかしらっ」
「本当なら采女(うねめ:下級女官)にだってなれない女だそうじゃない」
「本当に。元は下級貴族の端女(はしため:召使い)だって話よ」
「あら、私は東宮が気まぐれに拾ってきた遊び女(あそびめ)だって聞いたわよ」
女房達の中にも、格というものがある。彼女たちはそれぞれ地方長官の娘であったり、それなりの中流貴族の娘であったり……後宮に仕える女房というのは、皆それぞれ実家へ帰れば姫君として扱われてもおかしくない身分の者たちばかりなのだ。
それが、突然現れた氏素性のしれない女を、まるで姫君のように扱い、大切にかしずかなければならないのだから、彼女達にはたまらないだろう。
しかしそんな女房達の噂話から、千夜子はなぜ自分がこの後宮に連れてこられたのか、なぜ東宮が手放そうとしないのか、知る事もできた。
「いくら桐壺様の面影があるって言っても、あんな遊び女を囲うなんて、東宮もお気は確かかしら」
桐壺の東宮女御。その噂は、千夜子も聞いたことがあった。
昨年流行り病にかかってお亡くなりになってしまったが、東宮が深く寵愛していた女御様だったとか……。
そんな噂を耳にした、塗篭に閉じ込められてから三日目の夜に、東宮の訪れがあった。
「おい七条、いい加減反省したか?」
「……東宮」
東宮は塗篭の中に入ってくると、千夜子の目の前の床板に、膝を立てた格好で座った。
「……反省したのかよ」
「恐れ多くも東宮に向かって『嫌い』などと言った事は……貴族の端くれとして、風上にもおけぬ所業だったとは……思っています」
しかしその言い方は、東宮の気に召さなかったらしい。
「お前……。悪いと思ってないだろ」
「……」
「ああくそ、腹が立つ……! 何がそんなに気に入らない!? そりゃあ、無理やり連れてきて閉じ込めたのは悪かったが……食事も衣も上等なのを用意させてるし、以前に比べればよほどマシな生活だろ?」
「……母は、どうしていますか……?」
「それならちゃんと兵部卿の宮に頼んだから大丈夫だ。あいつめ、嫌味たっぷり言いやがって……俺はな、下げたくも無い頭を下げて、ちゃんと頼んでやったんだよ」
「……そうですか……。それじゃあ、兵部卿の宮様に、お礼の文を書かないと……」
「文!? いい、そんなのは! この俺が直々に頼んだんだぞ? これ以上、礼なんかいるかってんだ」
東宮は何か思い出したのか、ことさら不機嫌そうにそう言って、じっと千夜子を睨んだ。
「文を書くなら……。俺に書いてみろよ」
「はぁ……?」
「『はぁ?』じゃない! いいか、今お前を世話してるのは俺だろ? 礼の文なら俺に書くのが筋だろうが」
「……。私は、家に……母の元に帰りたいんです。東宮、私はいつまでここに居れば良いんですか……?」
「……っ。そ、それは……俺が、飽きるまでだ」
ふいっと東宮は顔を背ける。不機嫌そうな顔がやけに幼く、千夜子の目に映った。
桐壺の東宮女御様は、東宮より五つも年上の姫であられたという。女御を亡くしてからこちら、東宮は女人に対する興味を全く失い、沈みがちだったとも聞いた。
その噂を聞いて以来、千夜子はあれほど恐ろしいと思っていた東宮を、なぜか恐ろしいとは、思えなくなっていた。
「じゃあ早く、私の事をお抱きになれば?」
「な……に……?」
東宮はまるで毒気を抜かれたような、きょとんとした顔で千夜子を見た。
「飽きるまで、お抱きになればいいんだわ。……貴方は、東宮なんですもの」
「……お前」
夜の静かな塗篭に、東宮がごくりと息を呑む音が響いた。
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