塗篭の姫君 二.
結局、東宮が千夜子を抱くことは無かった。
「うぬぼれるなっ」
赤らめた顔でそう叫び、逃げるようにして塗篭を出て行ってしまったのだ。
(……じゃあ一体、どうしたら良いのよ……っ)
精一杯、覚悟を決めての発言だったというのに。
しかしその翌日、千夜子の塗篭には文机(ふづくえ)が運び込まれた。
全く、東宮の意図が分からない。兵部卿の宮へ文を書けという事なのか、それとも東宮に書くべきなのか……。
(いつになったらここから出られるんだろう……)
どうせする事も無いし、せっかく用意された文机なのだから、と料紙に向かって筆を握っていると、ふと、左近の中将の事が思い出された。
いつも、雅びな歌を送って来た兵部卿の宮とは対照的に、どこまでも真面目に、千夜子の将来を心配し、面倒をみたいのだ、と。一生大切にお守りします、と。そう、書いて寄越してくれていた。
(左近の中将様……)
あの晩。
左近の中将が忍んで来て、千夜子が別れを告げたあの晩。千夜子は本当は、嬉しかった。もう少し自分がましな暮らしをしていて、中将に見合うような家柄の姫だったなら、きっと中将を喜んで受け入れていただろう。
『どうか、この掛け金を……外しては頂けませんか?』
あの時、もしも……掛け金を、外していたらどうなっていたのだろう。同じように東宮が現われて、千夜子をさらったのだろうか。
千夜子にはどうしても、東宮と中将が共謀していたとは、思えなかった。
あの時の事は、無我夢中でほとんど覚えてもいないのだが、
『お許しください……っ、姫……』
ほとんど泣きそうな左近の中将の声を、千夜子は暗闇の中で、聞いたような気がする。
(中将様……)
目の前の真っ白な料紙に、左近の中将宛の文を、書こうとして……止めた。
今更、こうして後宮に囚われの身となった自分から文が来たところで、中将にはきっと迷惑なだけだと思ったのだ。
変わりに千夜子は、母への手紙を書いた。自分は元気で居ること、宮中にお仕えする事になったのだという事、兵部卿の宮とのご縁は結ばれることは無くなったが、心配しないで欲しいという事……。
自分の立場があやふやなので、状況を上手く伝えることは出来なかったが、とにかく元気で居ることだけでも、伝えたかった。
「どなたか、いらっしゃいませんか? 御文を届けて頂きたいんですけれど……」
千夜子が声を掛けると、いつも誰かしら女房がやってくる。東宮は、この塗篭の近くに常に女房を侍らせているようだった。
しかし、その文は母の元へは届かなかった。
書いたばかりの文は、千夜子の目の前で破られ、ばらばらと散り捨てられていく。
「貴女、何か勘違いしているんじゃなくって? 貴女は、文使いなど頼める立場じゃないのよ。皆、東宮のご命令だからしぶしぶ貴女のお世話をしているの。ご命令に無いことは、出来ないのよ」
そう言った女房の後ろには、くすくすと忍び笑いを漏らす女房が数人。
それは聞こえよがしな嫌味を言っていた女房達に違いなかった。千夜子は頼む相手を間違えたのだ。
「そう……。それは、失礼しました」
「あんまり調子に乗らない事ね!」
けたたましい音を立てて、妻戸が閉じられる。がちゃりと掛けられる、錠の音。
身分も卑しい囚われの女が、後宮の外へ文を出すなど、生意気だ、という訳だ。
それだけではない。なかには親切な女房も居るが、やはり千夜子を快く思わない女房は多い。
運ばれる食膳に、わざとらしく埃を乗せられていたり、汁を零されたりする事もあった。
(別に……。こんなこと、対した事じゃない)
今までのように、いつご飯が食べられなくなるか、いつ屋根が飛ばされて野ざらしの中に放り出されるか心配するのに比べたら、些細なことだ。
……そう、考えてはみるものの、これまで屋敷の外の人間に接することが極端に少なかった千夜子にとって、むき出しの敵意というものは、想像以上に辛いものだった。
敵意に満ちた女房の目が、振り払おうとしてもまざまざと、何度も思い返される。
(早く帰りたい……。ここから、逃げたい……)
千夜子は切に願った。
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