塗篭の姫君 三.
その夜も、相変わらずの横柄な態度で、東宮はやって来た。
「おい、文はどうしたんだよ。机用意させただろ、俺宛の文、書けよな」
「……どうして、文が必要なんですか? 文を書いたら、家に帰してくれるっていうの!?」
千夜子はつい、声を荒げてしまった。昼間の女房の仕打ちのせいで、まだ、気が高ぶっていた。
「なんだよ。せっかく用意させたっていうのに、何を怒ってるんだ」
「……帰りたいんです。……どうしたら、帰してくれるの!?」
「だ、だから俺が飽きるまでだって言ったろ」
千夜子はきっと東宮を睨みつけた。
「そうやって、……何もかも、自分の思い通りにして……人の運命まで変えて、楽しいんですかっ」
「家に帰ってどうするっていうんだ。お前、そんなに兵部卿の宮の愛人になりたかったのかよ!?」
「……っ」
千夜子は顔を背けた。
「……ここに居たくないの……っ」
感情が高ぶったせいで、つい湿っぽい声が漏れてしまう。
「お、おい」
東宮は慌てたのか、千夜子の顔を覗き込むようにして側に寄った。
「何なんだよ、お前は……」
声に心配そうな響きがある。初めに千夜子を組み敷いたときとは、まるで別人のようだった。あの時の東宮は、自分をただの物のように扱っていた、はずなのに。
「そ、そうだ。お前、碁はやるんだろ。少外記に聞いた。やろうぜ、ほら」
東宮は手づから碁盤を用意して、石を握り始めた。
「碁……?」
母と二人でたしなんでいた碁は、千夜子が好きな遊びの一つだった。……まるで気分が乗らなかったが、東宮は「ほら、早く置けよ」と急かして来る。しぶしぶ千夜子は石を握り、東宮と碁を打つことになった。
その日も東宮は千夜子を抱くことも無く、一局打ち終えると満足したのか帰って行った。
東宮はほぼ毎夜、千夜子の元を訪れた。そうしてひとしきり話したり遊んだりすると、満足した様子で帰っていく。
千夜子は次第に、東宮の訪れに慣れていった。
しかし千夜子の悩みは、別のところで膨らんでいった。
「きゃあっ」
ばしゃ、と音を立てて辺りに水が飛び散った。壁越しに聞こえる、女房達の忍び笑い。狭い明り取りの窓から、水を掛けられたのだ。
あたりは水浸しとなり、着ていた着物も茵も、すっかり濡れてしまった。
近くに控えているはずの女房も、今の悲鳴に気づいているはずなのに、誰も助けには来てくれない。
濡れた衣を脱ぎ、部屋の隅でがちがちと震えていると、夕刻頃、たまたま様子を見に来てくれた少外記が、驚いた声を漏らした。
「まっ、どうしたの七条さん? この有様は……っ」
「あの……そこから、水が飛んできてね……」
「ま、まぁっ、誰かしら、こんな、酷いっ」
千夜子は慌てて指を口元に立て、声を潜める。
「……聞こえるから……」
すぐ近くには、控えている女房達がいるのだ。
しかし少外記は眉根を寄せて、納得いかない顔をしていた。
少外記はとてもいい人だ。この塗篭を訪ねたりしたら、おそらく他の……千夜子を快く思わない女房達に疎まれるだろうに、こうして時々千夜子の元を訪れて話し相手をしてくる。
今もこうして、千夜子のために怒ってくれている。
「あたらしい衣を持ってきます! ちょっと待っていてね」
その場は何とか、少外記の助けで片付けられた。
しかしその後も、泥を投げ込まれたり、残飯を投げ込まれたりと、女房達の嫌がらせは続いたのだった。
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