塗篭の姫君 四.


 東宮が梨壺の塗篭に女君を囲っている、という噂は後宮中に知れ渡り、いまでは内裏に参内する貴族たちまでが知るところとなっていた。

 しかしそれがまさか、右大臣の娘の女御入内の話の発端になろうとは、東宮は思っていなかった。

「右の大臣(おとど)の言い分は、ごもっともな事と思いますよ、東宮」

 兵部卿の宮は穏やかな顔でそう告げた。

「これまで入内のお話を出せなかったのは、昨年、桐壺女御を亡くされて気落ちしている東宮をおもんぱかっての事です。それが、近頃ではようやく女人に興味を示すようになった……と、そういう事であれば、入内のお話を持ちかけるのも当然です。大臣の三の君殿は……まぁ、まだ少し幼くていらっしゃいますが、身分家柄からいって、都一の后がねであられますから」

「……なんだよそれは……っ。興味を示すって言ったって、別に俺は、七条とは……そんなんじゃ……」

「おや、この私がまさに摘みあげようとしていた花を、横からむしり取っておいて、何をおっしゃる」

「……しつこいぞ、お前」

「これは失礼」

「……だけどお前さ……。……ど、どうやって七条を落としたんだよ……」

 七条は、東宮がさらって来なければ、この兵部卿の宮の愛人になっていたはずの女だ。

「丁寧にお世話して、歌を送りましたよ。御簾越しに何度か、季節の風情について語らった事もありましたが……。なぜ今頃、そんな事をお尋ねになるのです」

「……あいつ」

 その美しい面差しは、初め、確かに桐壺女御に似ている、と思った。そう思っていたはずなのに、今ではもう、東宮には彼女の面影を重ねる事など到底出来なくなっていた。

 桐壺の女御は、いつも優しく東宮を受け入れ、微笑み、春の陽射しのような穏やかさで包み込む愛情をくれた人だった。

 それにくらべ、あの七条は……。あれほど思い通りにならない女を、東宮は見たことが無い。いや、たいていの人間は全て東宮に服従してきたし、思い通りにならない人間などそもそも居ないものだったのだ。
 それが。

『私は貴方が嫌い……っ』

 そう、正面きって宣言されたときは、生まれて初めてと言って良いほどの、衝撃を受けた。
 そして。

『早く、お抱きになればいいんだわ』

 あれほど怯えて抵抗していたのが、まるで全てを諦めて開き直ったかのように、つんと澄まして、そう言った。

 穏やかさなど、微塵も無い。いつも気が抜けず、はらはらさせられる。

 毎夜、塗篭を訪れて機嫌をとっているせいで、最近はようやく少し打ち解けてきたが、もしまた手を出そうなどとすれば、一体どんな反応をされる事か……。
 そう考えると恐ろしく、未だに何も出来ていない。

(なんでこの俺が、こんなに気を使わなきゃならないんだ……っ!?)

 考えると腹立たしいが、それでも東宮は七条の機嫌を損ねるのが、……怖かった。

「……難しい女だよ、ったく……」

「おやまぁ、東宮をここまで悩ませるとは。塗篭の御息所(みやすどころ:妃)とあだ名されるのも、うなずけますね」

「はぁ!? なんだそりゃ」

「女房達の間では、そう呼ぶ者もいるらしいですよ」

「何が御息所だ。ちっとも休まらねぇってのに」

 兵部卿の宮はくすくすと忍び笑いを漏らしている。

「何がおかしいんだよ」

「いえ。……東宮が、お元気になられて良かったと思っていたのです」

「は?」

「本当に、お元気になられた。私も叔父として、ご心配申し上げていたのですよ。花を横取りされたのも、かいがあったという物です。……左近の中将は未だ、お恨みしているようですが」

「ああ……」

 左近の中将は、七条をさらって来た晩以来、宮中に出仕(しゅっし:出勤)して来ない。嫌がるのを無理やりに手伝わせたのだから恨みに思っているのかもしれないが、それにしてももう、十日余りも経つというのに、だ。

「……ずいぶん長い、物忌み(ものいみ:占いなど、悪い事があったため家に篭ること)だ」

「思いつめる性格ですからねぇ、彼は……。大事無いと良いのですが」

「お前……様子見てきてくれないか」

 左近の中将はこれまでに浮いた話のひとつも無い、貴族の男には珍しい真面目な男……堅物と言ってもいいような男だった。その男が初めて、興味を示したのがあの七条だったのだ。
 ひどく真面目な口説き文句も、東宮はその耳で聞いていた。それを無理やりに……さらうのを手伝わせたのは良くなかった、と今では少し、後悔している。

「また、願い事ですか、東宮」

 兵部卿の宮は杓を口元にあてて、優美な笑みを浮かべてはいるが……それは意地の悪い笑みだった。
 東宮は十日余り前、この兵部卿の宮から七条を奪ったあげく、その母親の面倒を見てやってくれ、と頼んでいるのだ。

「……お前な……。左近の中将はお前の義弟だろ……。妻の家に行くんだ、ついでに様子みるくらい良いだろうが……」

 兵部卿の宮の正妻は、右大臣の大姫(長女)である。その弟の左近の中将は、兵部卿の宮の義弟という事になる。

「ま、他ならぬ東宮の頼み事です。喜んでお引き受けいたしましょう」

 いかにも「これは貸しですよ」と言わんばかりの表情に、東宮は少々げんなりしながら、うなずいた。


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