塗篭の姫君 五.
右大臣邸の東の対(たい:別棟)。左近の中将は、重いため息とともに寝返りを打った。
ここ十日余り、ろくに食事も取らず人も寄せ付けず、こうして邸に閉じこもっている。
『中将様、助けて……っ』
七条の姫君の声が、耳に貼り付いて離れなかった。
どうしてあの時……。東宮に逆らってでも姫君をお助けしなかったのか。
いや、……逆らうことなどは、出来ない。
今思い返してみても、きっと左近の中将には、東宮に逆らうことは出来なかっただろう。
あれは東宮の厳命だった。
ひどく怯えて泣いていた、姫君。
しかしそれは、相手が東宮だとはご存じなかったからに過ぎない。
きっと今頃は……女房としてでも、後宮で東宮の寵愛を頂いて……幸せに暮らしている、はずだ。
(だが……)
中将は再度寝返りを打つ。
東宮は少しばかり……身勝手な、ところのある御方だ。一体、今ごろ姫君をどう扱っておられる事か。姫君は大切にされているだろうか、ひどい目にあってはいまいか……。
そんな事ばかりを考えて塞いでいた、その時。
「お兄様ったら、まだ寝ているの?」
御簾を捲り上げて、きらと流れる黒髪も眩しい少女が姿を現した。さらにその後ろには、いつも優美な色気をまとった貴公子の姿。
「三の君……、それに兵部卿の宮まで」
「これはこれは。ずいぶん長い物忌みだと思っていましたが、臥せっておられたのですね」
二人は左近の中将の枕辺までやってきて座り込んだ。慌てて中将は身を起こす。
「三の君……! いくら裳着(もぎ:女子の成人式)前だとはいえ、そう軽々しく出歩くものではない。しかも宮とご一緒とは、分別が」
「参内(さんだい:内裏へ出勤すること)をサボってるお兄様に言われたくないわっ」
「……っ」
「まぁ、まぁ」
兵部卿の宮がやんわりと微笑む。
「具合はどうです、左近の中将。……東宮がご心配しておられましたよ」
「……はぁ。別に、病気という訳ではないのです」
「あの晩の事がそれほど痛手でしたか」
「……っ」
あの晩。……本来であれば、今頃はこの兵部卿の宮が姫を手に入れていたはずなのに、宮はなんとも思わないのだろうか。
「宮は……、大人でいらっしゃいますね。俺は、まだきっと……子供なのです。気持ちの整理が付かない」
「いえいえ。さすがに私も今回の東宮のお振る舞いには胸を痛めましたよ。……でも、七条の姫の御身の事なら、ご心配ありません。それはそれは、東宮に大切にされているようですから」
「! ほ、本当ですか……!?」
中将は思わず顔をあげて兵部卿の宮を見た。宮は「ええ」とうなずいて杓を口元にあてる。
「塗篭の姫君の事ね!」
三の君が急にはしゃいだような声をあげた。
「なぁに? お兄様ったら、塗篭の姫君にご執心だったの?」
「ぬ、塗篭の……?」
塗篭と、姫君と。まるで結びつかない言葉に困惑して、兵部卿の宮を見る。宮はくすくすと声を漏らして笑った。
「三の君殿のお耳にまで届いているのですか。これは、なんとも」
「そりゃあそうよ! 私、東宮の元へ入内する予定でしょう? 東宮の近辺の情報は、なるべく耳に入るように女房達に頼んでいるの」
「ご不快では無いのですか?」
「あら、だって身元も知れない女だって聞いたもの。相手にならないわよ。……でも、塗篭に閉じ込めてまで寵愛してるっていうのは、ちょっと気になるけど。私が入内するんでなければとっても楽しい……素敵な、絵物語のようなお話なのだけれどね」
「塗篭に……と、閉じ込めて?」
左近の中将は思わずうわずった声を上げてしまった。
「まぁ少しばかり……問題のあるご寵愛の仕方ではありますが。大切にされているご様子なのは、間違いありません」
「そんな……」
閉じ込めるというのはどういう事なのだろう。東宮は姫を「女房にする」と言っていた。それを……。
「ねぇねぇ、身元も知れない女って聞いていたんだけど。実際はどうなの? お兄様も宮様も塗篭様をご存知のようじゃない」
どこまでも興味津々といった様子の三の君に、中将は思わず声を荒げた。
「控えなさい、三の君! あの姫君は……っ!」
零落されているとはいえ、宮家の姫君であられるのだ。……それを、塗篭に……?
「な、何よっ、怖い顔して……っ! ……わ、私は東宮妃になるのよ? 気にして当然じゃないっ」
三の君はじわりと目に涙を浮かべていた。
「何よっ、元は遊び女だったって噂だってあるわ! 私……っ、塗篭様なんて、相手じゃないんだから……っ」
そう叫ぶと、三の君は唐突に立ち上がってばたばたと走り去っていった。
「あ……」
「おや……。強がりをおっしゃってはいましたが、やはり気にしておられたようですねぇ……。何しろ三の君殿はまだ……十二でしたか。突然、入内だ裳着だと言われて気も高ぶっている事でしょうし……」
「……」
中将はため息をついた。まだ幼い妹を、東宮に入内させるという話を聞いたのは、つい数日前の事だ。
優しい言葉の一つもかけてやれない自分に、軽い嫌悪を覚える。
七条の姫君と、妹の三の君と。
もしも三の君が入内する事になれば、右大臣家の権勢をもってしてでも、七条の姫君は排除される事になるだろう。この右大臣邸にまで「塗篭の姫君」などと噂が届くようであれば、それは間違いない。
もしそうなったら、七条の姫君は……。
「大丈夫ですよ、左近の中将」
兵部卿の宮は相変わらずの優美な笑みを浮かべている。
「私は東宮に、七条の姫君の母親のお世話をするように、と頼まれているのです。もし姫君が後宮を退出するような事があれば……その時は、私が母娘ともども、心を込めてお世話します」
自信に満ちた笑みを浮かべた宮の様子に、中将は羨望と……軽い嫉妬を覚える。
(じゃあ、俺は……?)
のしかかってくるような暗く重たい感情に、中将は胸を押さえた。
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