秋の夕べのあやしきに 一.
千夜子は狭い塗篭の隅にうずくまって膝を抱えていた。
昼間は、怖くて部屋の中央には居られなかった。明り取りの窓から、いつ物を投げ入れられるか分からないからだ。
それに……それまで、中立の立場で居てくれた女房や、まだ親切にしてくれていた女房達が急によそよそしくなり、千夜子の様子を見に来てくれることも無くなったのは、いつだったか。それはある時期を境に顕著に現われた。
何故なのだろうと考えていたある日の朝、その理由が判明した。
その日、髪を梳きに来た女房は、乱暴に千夜子の髪をひっぱり、鋏(はさみ)を持ち出した。
「本当に、お美しい御髪(おぐし)ですこと。これを切ってしまえば、東宮の寵もなくなるのかしら」
ぞっとする想いで構えられた鋏を見上げる。
鋏は千夜子の髪に差し入れられて、するりと数本の髪が床に落ちた。
もう一人の女房がくすくすと笑いながら、それを諌める。
「お止しなさいな。そんな事をしなくても……ねぇ」
「そうですわね。じきに、右大臣家の姫君が入内されるのですもの。そうなれば、貴女の居場所など何処にもなくってよ」
二人の女房は笑いながら塗篭を出て行った。
(右大臣家の姫……? ああ……、そういう、こと)
大臣家の姫が東宮の元に入内するのは、しごく全うな話だ。
右大臣家の姫君が入内となれば、当然、千夜子の存在は邪魔になる。他に東宮の妃はいないのだから、梨壺の女房らはこぞって姫君におもねり、寵を得ようとするだろう。その時にもし千夜子と懇意にしていては、障りがある……という訳だ。
(別に私と東宮は……そんなんじゃないのに)
未だ、東宮が千夜子を抱くような事は無かった。だからそれは女房らの誤解に過ぎないのだが、こうして東宮に囲われて……夜毎、東宮が訪れているという事実は、事実。いくら何も無いなどと言ったところで、信じるほうがおかしい。
千夜子は昼でも薄暗い塗篭の隅にうずくまって、一人、震えた。
(早く……早く、右大臣家の姫様が入内されたらいいのに。そうしたら、私はここから出してもらえる……?)
昼間が、怖い。
それはとても不本意なことではあるけれど、千夜子が唯一安らいで居られるのは、東宮が訪れる、夜だけだった。
その晩も、東宮は千夜子と碁を打ちにやって来ていた。
「なぁお前……顔色悪くないか?」
「そう……ですか?」
じっさい、千夜子は憔悴していた。
「なんだよ、その手は」
「あ……」
ほとんど上の空で打った白い石は、千夜子の負けを決定づけるものだった。東宮は千夜子の手を握って引き寄せるようにし、顔色を伺った。
「……大丈夫か?」
「……」
千夜子は答えられず、ただ、うつむく。
「……帰りたい……」
ぽつりと漏らすと、東宮はぱっと千夜子の手を離した。
「またそれかよ!? お前、いい加減に諦めろよなっ。……なんだよ、この場所が嫌なら変えてやるよっ! 何が不満だ!?」
「右大臣様の姫君が入内されるんでしょう……? もう私は、必要ないはずです……。ここから出して、帰してください……っ」
「入内だと……!? そんなもんは断ってる! 右大臣の姫ったって、まだ十二のガキだぞ!? 俺はそんな子供の相手なんかする気はないっ。……大体っ」
東宮は乱暴に碁盤を脇へどけると、ずいと千夜子の方に膝を進めた。
「俺は誰が入内しようがお前を帰す気は無いっ」
「……っ」
喉の奥に熱いものが込み上げる。と、思うまもなく瞳までせり上がってぼろりと落ちた。一度落ちると、それは後から後からぼろぼろと落ちて止まらない。千夜子は顔を覆って嗚咽した。
……絶望に、飲まれてしまう。
「な、なんだよ……っ」
困惑した声が聞こえるが、千夜子にはどうする事も出来なかった。
「……おい、七条……」
背を撫でる感触がして……しばらくすると、千夜子はぐいとその場に押し倒された。驚いているうちに、ばさ、と上掛けの衾が掛けられる。
「もう……寝ろっ」
東宮は千夜子の枕辺のあたりに座り込むと、じっと千夜子を見下ろしていた。
「東宮……?」
「いいから、寝ろよ」
言いながら東宮は千夜子の髪を撫でるようにして整え、髪箱(寝るときに髪をしまう箱)へ納めてくれた。
そのままじっと千夜子を見下ろしている。
「……東宮……、あの」
「なんだよ」
「……も、戻らないんですか……」
「そのうち戻る。いいからお前は、寝ろよ」
「……」
じっと見られているのは決まりが悪く、とても眠ることなどできない。東宮の意外な行動に驚き、千夜子の涙は止まっていた。
「ほら……眼、閉じろ」
優しげな手が千夜子のまぶたを降ろすように撫でてゆき、千夜子は眼を閉じた。それでもしばらくは気が気でなかったのが……眼を閉じているうちに、いつのまにか眠りに落ちていた……。
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