秋の夕べのあやしきに 二.
目覚めたとき、千夜子はぎょっとした。
明り取りの窓から差し込む光はまだ弱い、卯の刻(六時)頃。
その薄明かりは横たわる公達の深紫の袍(ほう:服)をやわやわと照らし出していて……。
「と、東宮!」
千夜子は慌てて、東宮の肩をゆすった。
「うん……」
「起きてください、こんな……塗篭なんかに寝ちゃって……! 東宮!」
まだ寝ぼけながら、それでも東宮はようやく身を起こした。
「……んん……七条……?」
千夜子の顔を不思議そうに見つめ、それから「ああ」と納得したような顔をして、ゆっくりと伸びをした。
「不味いなぁ……。周防あたりがうるさそうだ……」
ぶつぶつとぼやきながらも立ち上がり、塗篭を出て行こうとして、ふと千夜子のほうを振り返る。
「これも共寝(ともね)に入るかな……」
「! 何を言ってるのよ……っ」
東宮は何か嬉しそうに笑った。
「泣いてるよりは、まだ怒ってるほうがいいや」
「……!」
そう言って、東宮は出て行った。
千夜子は複雑な思いで、錠のかけられる音を聞く。
「……東宮」
東宮は、千夜子をさらい、この塗篭に閉じ込めている張本人だ。彼のせいで、千夜子はひどい目にあっている。
それなのにどうしてなのだろう、最近は。
千夜子は先ほど見せた東宮の、罪の無い笑顔を思い出した。くったくのない、晴れやかで美しい、澄んだ笑み。
(……憎めない……)
憎めていれば、まだ楽だと思うのに。ただ胸が……、苦しかった。
朝から東宮に調子を狂わされて、その日の千夜子は油断していた。
だからつい、部屋の真ん中でぼんやりとしてしまったのだ。そこへ、飛んできたのは、石だった。
「あ……っ」
ちょうどそれは千夜子の額の右上あたりに当たった。これまでにも小石を投げ込まれた事はある。しかしそれは当たっても怪我をするほどのものではなかった。
「……痛……っ」
頭はぐらぐらとふらつき、かすんだ目で転がった物を見る。それは拳の大きさほどもある、石だった。
額からあごにかけて、生暖かい感触が流れるのが分かり、とろりと滴って床を濡らす。
真っ赤なそれが広がるのを見つめながら、やがてその赤が黒に変色して、全てが真っ暗になろうとしたとき、
「七条さんっ!?」
(……少外記、さん……)
少外記の声と、妻戸の錠が開かれる音を聞いた……。
目を開けると泣きはらした様子の少外記の顔が目に映った。
「七条さん……っ、ああ、良かった目を開けてくれて……」
「少外記さん……?」
千夜子は身を起こそうとして、
「痛っ」
額に裂かれるような痛みを感じた。
「ああ、起きないで。薬師(くすし:医者)も、しばらくは安静にと言ってたわ」
「……」
そうだ、石を投げ込まれたのだ。
千夜子はどうやら少しの間、気を失っていたらしかった。
痛む額に手をやると、布が巻かれている。
「これ……少外記さんが……?」
「いいえ、それは薬師が……。ああ……ごめんなさい、七条さん。ごめんなさい……っ」
「……? 薬師は……少外記さんが呼んでくれたんではないの……?」
「呼んだわ……っ。違うの、私……。ここのところずっと、この塗篭に来ていなかったでしょう……? ごめんなさい、怖かったの。ほ、他の女房の皆様が、ここへ近づくとろくな事にならない、父親にも迷惑がかかるって言われて……。で、でもまさか、こんなひどい目にあってるなんて、思わなかったのよ……っ」
そう言ってまた、ごめんなさい、と繰り返す。
「ありがとう……、少外記さん。迷惑をかけて、こちらこそ、ごめんなさい。……私、今日はつい、ぼんやりしていて……」
「何を言ってるのよ……。あんな、石を投げ込むなんて……っ」
言って少外記は泣きながら眉をひそめた。
もうこの後宮に、千夜子の味方は誰も居なくなってしまったと思っていた。殿舎の違う由紀はあまりこちらへ来れないようだし、この少外記も最近では姿を見せなくなっていたから。
「……本当に、ありがとう」
千夜子はやっと、微笑んだ。
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