千夜子 二.


 破れかけた几帳(きちょう:布のついたて)の影に隠れて待っていると、受領は「おーい、おーい、お姫ぃさんや」と大声を上げながら、呼んでもいないのにずかずかと屋敷に入ってきた。
 伸びっぱなしの庭先の草が行く手を阻んで難儀したようだが、それでも何とか千夜子の部屋までやってくると、几帳の前にどっかりと座った。
 丸々と肥えて脂ぎった顔に太い眉。小さな目は酷く離れ、大きな口は開けば耳にまで届きそうである。
 太った、かえる。千夜子にはどうしてもそう見えてしまう。
 烏帽子(えぼし)の下からはみ出る髪は半分が白髪で、顔にも手にも、深い皺が刻まれていた。

「いやいや、あの庭は少し綺麗にしなければいかんなぁ。なぁに、わしのところへ来ればそんな必要もなくなるんじゃが。家へ来れば庭なんかそりゃもう立派なもんじゃぞ。好きな花でも木でも植えてやる。どうかのう、考えてみてはくれたかね?」

 いい人、なのだと思う。……しかし……、どうしても千夜子はこの老人と呼んで差し支えない公達を、好きにはなれなかった。

「はぁ……。あの……本当に、有り難い事と思っているのですが、なかなか想う事も多くて……。あの……相談したい人も居りますので、もう少しだけお待ち頂けませんか……?」

 おずおずと、言う。しかし本当にこれは有り難い申し出なのだ。この羽振りの良い老人の元に嫁いだら、もう明日の糧を心配する必要も、水仕事をする苦労も、冬の死ぬほどの寒さだって、全てから開放されて、楽に暮らせる。病がちで寝込んでいる母にだって、精の付く物や薬を与えて、病だって良くなるかもしれないのだ。

(私さえ、我慢すれば……)

 しかしなかなか決心は付かない。

「ふむぅ、そうかね。いやいや何、まぁそんなに焦らんでも良かろう。わしは気は長い。そういえばまだちゃんと歌もおくってなかったね。今夜にも歌をおくりますよ。父君も無くて心細いだろうが、今後はわしを夫とも父とも思って頼っていいからね。いやいや、高貴なお姫ぃさんが、こんなあばら家に住まっているのを、わしは見捨てては置けんのだから」

「はぁ……」

 べらべらとしゃべっている鼻息が几帳を隔てたこちらまで届くようで、千夜子は思わず身を引いた。

 その後もなんだかんだとしゃべりたい事をしゃべりまくり、半時(はんとき:一時間)も経つと、ようやく受領は帰って行った。この分では、二日と開けずにまたやってくるだろう。

「な、な、なんですの? 今のは」

 次の間で様子を伺っていた由紀が来て、青ざめた顔で立ち尽くしていた。

「い、今の男、本気で姫様を妻に、と考えているのですか?」

「うん……。ありがたい話よねぇ……。でも、なかなか乗り気になれなくて……」

「あ、あ、当たり前ですわっ! あんな、かえるもかえる、イボガエルのようなご老人、姫様には合いませんわっ」

「で、でもさ、背に腹は代えられないっていうか……。家、こんなだし……」

 辺りをくるりと見回す。朽ちかけた格子に、抜けた床板、草の生い茂った庭……改めて見てみれば、本当にひどい荒れようである。

「やっぱり私、あの受領の話に乗ろうと思う……」

「そんな、姫様! いくらなんでも」

 由紀が言いかけたとき、簀子縁(すのこえん:縁側)に人が立つ気配がした。

「なりません!」

 柱に縋りつくようにして立っていたのは、やせ細って青白い顔色の、それでもかつては美しかったであろう面影を残す、女性の姿。

「母上!」

 奥の間で寝たきりだった母が、受領の騒ぎを聞きつけて起きて来たのだ。

「起きたらお身体に障ります、奥で寝ていてくださいっ」

 慌てて千夜子は言ったのだが、母はしっかりとした足取りで千夜子の側までやって来ると、端座してその手を握った。

「千夜子、いくら落ちぶれたとはいえ、貴女の父様は先々帝の六の宮。受領など、本来口をきくことも許されないご身分ですのよ……っ。それを、妻になどと……それも、北の方(きたのかた:正妻)でもなく、妾にしようなどと、この母が生きている限りは、絶対に許しません……っ」

 母は今にも涙を零しそうな潤んだ瞳で訴えた。

「どうか、誇りを持って千夜子。あなたは、宮の姫なのですから……っ」

「そ、そうは言われましてもですね……」

 千夜子とてあんな男、受領でなくても嫌である。しかし明日をも知れぬこの生活では、他に手も無いのだ。

「誇りを捨てるくらいなら、この身など果てても良いのです。千夜子、貴女は誇り高く居られないのですか……!」

 とうとう母の目から大粒の涙がぼろりと落ちる。

「う……」

 母は、いつもこうだ。何より身分を大切にしている。しかし……誇りや身分でお腹がいっぱいになる訳ではない。父宮は千夜子が物心付く前に亡くなってしまったし、誇りのために死ぬような覚悟は出来ていない。……むしろ千夜子は、まだ生きていたい、と思う。

「姫様! 由紀が、由紀が何とかします!」

「えっ?」

 見上げて見れば、由紀はボロボロと涙を零していた。鬼気迫る風情の母に、感化されたのだろう。

「姫様は、着飾ればそれはもうお美しいんですもの! 後宮でときめくどの御方にも負けないほど……! 私、なんとかしますわ! 姫様にふさわしいお相手を見つけてきます!」

「ゆ、由紀?」

「まぁ、由紀殿……!」

 母はまぶしそうに由紀を見上げた。由紀は後宮に仕えている。並み居る貴族の公達、殿上人(でんじょうびと)、上達部(かんだちめ:特に上流階級の貴族)にも出会う機会に恵まれているのだ。

 しかし。

「そんな、都合よくこんな家にくる公達なんて、いないってば……」

 現代は妻の家が婿を世話する婿取り婚が普通である。そのため、男はなるべく良い家柄や金持ち等、条件の良い姫を選んで結婚し、出世を図るものなのだ。

「いいえ、姫様はれっきとした宮家の姫君。それに、都中探しても見られないほどのご器量の持ち主ですわ! 由紀は、必ず姫様にふさわしいお相手を探します!」

「ゆ、由紀……」

 由紀の剣幕と、目を輝かせてうっとりしている母に気圧されて、「う、うん……」千夜子はつい、うなずいていたのだった。


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