秋の夕べのあやしきに 三.
その晩の東宮の激昂は、それは恐ろしいものだった。
「周防っ! 女房らを集めろっ!! 宿直をしていたのは誰だっ!?」
簀子縁を踏み鳴らし、梨壺中に響くような大声で怒鳴った。
「東宮……やめて下さい。大丈夫だから……大事にしないで」
「七条は黙ってろ!」
やがて千夜子の塗篭の前の簀子縁には、ひしめくように女房達が集まった。
「この塗篭に石を投げ込んだ者がいる! 誰か心当たりは無いか!! 見た者は無いかっ!?」
ざわ……と女房らの間にさざ波のようなどよめきが走ったが、しかし答える者はいなかった。
「宿直は!?」
青冷めた顔の少外記がおずおずと声を上げる。
「……わ、私でございます……。申し訳ございません、私が駆けつけたときには、もう七条殿はお倒れになった後で……。く、薬師を呼ぶのが精一杯でございました……」
「誰か不審な気配は無かったのか!」
額を擦り付けるようにして平伏したまま、少外記が答える。
「……も、申し訳ございません。何も……」
ちっと東宮は舌を鳴らした。
「東宮」
女房らの先頭で平伏していた周防が頭をあげ、東宮を見上げた。
「私ども女房を疑っておいでですか?」
「……さぁな」
「東宮、もしそうならば聞き捨てなりません。第一、七条は素性の知れぬ、ただの新参の女房に過ぎません。それを、働きもせずに居るものを、私どもはただ面倒を見ているのですよ! その私どもに疑いをかけるなど……」
東宮は周防のほうへ一歩足を踏み出し、どん、と激しい音を立てた。
「いいか、七条に仇なす事はこの俺に仇なす事と思え!」
女房ら皆を見回しながら、激しい剣幕で言い放つ。
「そ、それは」
周防は震えながら、それでもまだ気丈に言い募った。
「それではこの後宮の秩序が成り立ちませぬ……っ」
「黙れ! これ以上口答えするようならたとえ上臈(じょうろう:女房の中でも最高位の女官)だろうが容赦はしないっ」
それ以上は誰も何も発することは無かった。東宮の「退がれ」という言葉とともに、女房はみなそれぞれの局へ帰っていった。
東宮は塗篭に残り、伏したままの千夜子の枕辺に座った。
まだ収まらない様子で、肩で息をついている。
千夜子はふっとため息を漏らした。あれほど女房達を刺激しては、一時は嫌がらせが収まったとしても、またいつひどい目に合わされるか分からない。……東宮は一日じゅう千夜子の側に居られる訳ではないのだ。
「……大事にしないでって……言ったのに……」
「……」
東宮は決まり悪そうに顔を背けた。しかしまた千夜子を見下ろすと、痛ましげに千夜子の白い宛て布に、触れる。
「こんな……お前、石を投げ入れられたのは……初めてか?」
小石は投げ込まれたことがある。……しかし、あんなに大きな石は、初めてだ。
「……ええ」
しかし東宮は一瞬の間を見逃さなかったのか、眉間に皺を寄せて千夜子を睨んだ。
「本当だろうな……」
「本当です」
今度は間髪いれず、答える。
東宮は、ふっとため息を漏らし、それから千夜子の手をそっと握った。
「……ごめん。……たぶん……右大臣家筋の連中だ。右大臣は、お前の事を良く思ってないから……。右大臣に味方する貴族は、多い」
「それは、そうでしょうね……」
「明日にでも場所を移す。この塗篭は、駄目だ」
千夜子は何となく見ていた手から視線を移し、東宮の顔を見上げた。
「……私。帰しては……もらえないんですか……?」
「……っ」
東宮は一瞬顔を歪め、それから千夜子の手を強く握り締めた。
「それは……駄目だ」
「……そう」
また、千夜子は目を伏せて、握られた手を見つめた。
「申し訳ありません、東宮。今日はもう、頭が痛くて……」
「あ、ああ」
東宮は慌てた様子で千夜子の手を離し、枕辺から立ち上がった。
塗篭から出ようとして、一度、振り向く。
「……ごめん」
言い捨てるようにして、東宮は出て行った。
(……頭……痛い……)
今夜は何も考えたくない。
千夜子はゆっくりと降りてくるまどろみに身を任せた。
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