秋の夕べのあやしきに 四.
まぶたの裏が濃い橙に染まっている。何かの爆ぜる音、熱、焦げた臭い……。
千夜子は煙にむせ返って目を覚ました。
「……何?」
鼻と口とを袖で覆い、身を起こす。
「……っ」
目の前に、炎の簾があった。それは塗篭の妻戸を覆うように立ち登り、もうもうと煙を上げている。暗かったはずの塗篭は炎に照らされて真っ赤に染まっていた。
呆然と、した。
(どうして)
考える間もなく立ち上がり、なんとかそれを消そうと茵を取り上げて叩いてみる。当てた部分の炎は一瞬消えるが、すぐにまた勢いを吹き返して燃え盛る。
(熱……っ)
額の傷がずきずきと痛みを訴える。煙は目に染みてボロボロと涙が落ち、激しく咳き込んで、とうとう千夜子は崩れ落ちた。
(消さなきゃ……死んじゃう……っ)
そう思うのに足が立たない。座り込んだまま、千夜子は炎に向けて茵を振り回した。妻戸は錠がかけられている上に完全に炎が覆っている。
視界がぼやけ、意識も朦朧としてきた。
妻戸の向こう側で女房らの悲鳴が聞こえている。
千夜子は煙が喉に貼り付いて、悲鳴すら上げられない。
(ここで、死ぬの……!?)
ずるずると後ずさりして目の前の炎を見上げたとき。突然炎の簾がはげしい音を立てて、割れた。
「七条……っ」
かすむ目に映る、深紫の袍。
千夜子の声は音にもならず、それでも必死に叫んだ。
(……東宮……っ)
伸ばされた腕に縋るようにしがみつくと、ぎゅうと抱きしめられて、全身の力が抜ける。
すぐに侍達が雪崩れ込むように塗篭に入ってきた。戸板や几帳を踏み倒して水を撒き、あたりには煙と煤けた臭いが立ち込める。
(……助かった……の……?)
まだ、震えが止まらない。
「無事か……?」
少し身体を離した東宮は、千夜子の顔や腕や髪を確かめると、「ああ」と声を漏らした。
千夜子の顔に袖をあて、すすけた顔をぬぐってくれる。
部屋へ飛び込んでくるときに水を被ったのか、東宮の袖も髪もずぶ濡れに濡れていた。
「無事か……、良かった」
そう言ってもう一度抱きしめられた。
(東宮は)
声を出そうとしたが、それはほとんど吐息のような空気が漏れただけだった。それでも東宮は聞き取ったのか「大丈夫」と答えて千夜子の顔を見る。東宮の顔もひどくすすけて汚れていた。
「行こう、七条」
しかし立ち上がろうとした東宮は、一瞬顔をゆがめて膝を折った。
(え……っ)
足が。東宮の指貫(さしぬき:下穿き)の左側半分は、焼け焦げてなくなっている。左足の先は暗くて見えない……けれど。
(足を……!?)
「妻戸を蹴破ったから……ちょっと火傷したみたいだな。大丈夫、大した事はない」
東宮は顔をしかめたまま何とか立ち上がり、千夜子の手を引いて立ち上がらせた。
「行くぞ」
そう言って、ひょこひょこと片足を引きずるようにして歩いていく。千夜子は慌てて東宮を支えるように肩を貸した。塗篭の外に出ると、集まっていた女房達が左右に除けて道を作った。
「東宮、そのおみ足は……っ」
悲鳴のような声を上げたのは周防だ。
「……俺の寝所に、薬師を呼んでくれ。それ以外は、誰も来るな」
ひやりとした夜気が頬を撫でる。塗篭を出たのは、もう何日ぶりの事だろう。
千夜子は東宮に肩を貸し、導かれるまま、東宮の寝所へ向かった。
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