秋の夕べのあやしきに 五.


 東宮は足裏とふくらはぎに火傷を負っていた。幸いにもそれは軽症で、跡も残らないだろう、と薬師は言っていた。
 今は東宮と二人きり、寝台の上に座り込んでいる。
 千夜子は薬師の煎じた薬湯を飲んだが、まだ、目と喉にくすぶった痛みが残っていた。

「七条……ごめんな」

「……」

 上手く声が出ないので、首を横に振る。火がどこから出たのか……それはおそらく誰かが放火したに違いないのだが……東宮は今夜、千夜子をあの塗篭に残しておいたことを悔いているらしかった。石を投げ込まれ、千夜子が怪我を負った当日。東宮が皆に向かって怒鳴り散らしたその夜の不審火。

「ごめん……俺のせいだ」

 しかし千夜子には東宮を責める気持ちは沸いてこなかった。
 もう駄目だ……と思ったその時。飛び込んできた深紫と、その必死の形相は、千夜子の目に焼きついている。
 千夜子はもう一度首を振った。

「今夜は……落ち着かないかもしれないが、ここに寝てくれ」

 東宮は千夜子を寝台に残して、自らは直ぐ隣の床板に寝そべろうとした。千夜子はその単衣の、袖の端を掴んだ。

(……東宮)

 唇で呼びかける。

「……七条?」

 千夜子は寝台に誘うように、東宮の袖を引いた。身体をずらして、寝台の半分を空ける。どうしてそうしたのか、自分でも分からない。ただおそらくは、ひとりで寝る事が心もとなくて……側に、来て欲しかった。

「……七条」

 東宮は寝台に乗り、うながされるまま、千夜子の隣に横たわった。
 千夜子は東宮の袖をしっかりと握ったまま。すぐ側に、ぬくもりがある。それは途方も無く、泣きたいほどに千夜子を安心させた。もうこのまま……どうなっても構わない。ただ、このぬくもりが側にあってくれれば、それで、いい。
 東宮の手が動いて、袖を掴んだ千夜子の手を外すと、両の手のひらがそっと千夜子の手を包み込んだ。

(……東宮)

「……もうすぐ、夜が明けるな……」

 東の空はすでに白み始めている。

「怖い思いさせて……本当に、ごめん」

 千夜子の手を何度も撫でながら、つぶやく声。
 それはまるで泣き声のようだった。


 互いの息使いに耳を澄ませ、ほとんど眠れないまま、その夜は明けた。手の平のぬくもりが離れて、東宮が寝台を降りる。
 待ち構えていたように女房達が現われて、東宮に袍を着せていった。

「俺は朝議があるから行くけど……。ここは、安全だから」

 御簾を潜って出て行こうとして、東宮は千夜子を振り返った。

「……朝議の後は……今日は管弦の宴があるから……夕方までは、戻らない」

 言いながら、千夜子の側へ戻って来て、額の傷のあたりに手を寄せて、それから頬に触れた。

「……ここは安全だけど……錠もない。……あとは、お前の好きにしていいから……」

(……え)

 千夜子は東宮の意をはかりかねて見つめ返す。その東宮の表情は、泣くのをこらえている子供のように、千夜子の目に映った。


<もどる|もくじ|すすむ>