秋の夕べのあやしきに 六.


 千夜子は東宮の寝台に座り込んだまま、動けずに居た。
 あれほど逃げ出したいと思っていたこの後宮。ようやく塗篭から抜け出せて、錠も無くなった今となれば……、皆、千夜子の事は疎ましく思っているのだ、後宮を抜け出すのを、咎める者はないだろう。これは、またとない……機会だというのに。

(……動けないよ……)

 先ほどの東宮の表情が、みえない鎖のように千夜子の足を繋ぎ止めている。
 千夜子はぼうっと座り込んだまま。いつまでも御簾の向こうを眺めていた。

 そのうちに、庇のほうに女房の訪れがあった。

「七条殿……。こちらに居られますか?」

 それは聞き覚えのある声だった。
 御簾を捲り上げて外へ出ると、

「由紀……!」

 見知った女房の姿があって、千夜子の顔を見るなり抱きつくようにして擦り寄ってきた。

「ああ、姫様……! よくぞご無事で……! 昨夜は、塗篭でボヤ騒ぎがあったとか。姫様が塗篭に閉じ込められていると聞いていましたので、本当に胸がつぶれるような心地がしていましたのよ……っ。そのお怪我は、大事ありませんか? 私ども貞観殿の女房には、塗篭の様子が分からなかったのです。いつもどなたかが見張られていて、近づくことも出来なかったのです」

「うん。……由紀、心配かけてごめん。ありがとう……」

「ああ、姫様」

 千夜子を抱きしめてひとしきり、由紀は身体を離すと千夜子の顔を見据えた。

「お逃げになりますか? 今ならば、私が手引きいたします。右大臣家の姫君の東宮女御入内のお話、私も聞き及んでおりますわ。こちらに居ても、姫様のお立場は辛くなるばかり。私、兵部卿の宮様にも頼まれているのです、折を見て……後宮からお連れするようにと」

「……」

 千夜子が答えずにうつむいていると、由紀は勘違いしたのかさらに言い募る。

「姫様、尼になるだの町人になるだのというお話は、ともかくこの後宮を出てからお考えになっても遅くはありませんわ。まずは七条のお屋敷に戻られるか、兵部卿の宮様の元に身をお寄せくださいませ。……ここに居ては、姫様の御身が危険です。昨夜のボヤ騒ぎ……。姫様のお命を狙ったとしか、由紀には思えませんもの……っ」

「……由紀」

 千夜子は由紀の手を握って、目を伏せた。まなじりに涙が浮かぶ。
 未だに千夜子を姫と呼び、大切に思ってくれている。由紀の申し出が、本当に有り難かった。

「私、本当に、この後宮から逃げ出したかったの……。毎日、毎日、あの狭い塗篭にいて……気が、変になりそうだった……」

 耳に蘇る女房達の誹謗中傷。陰湿な嫌がらせの数々。

「でも……行けない」

 千夜子は顔をあげた。

「ごめんね……。母上の事を思えば、すぐにも帰りたいし……こんな場所にはもう一刻だって居たくないんだけど……」

 由紀は怪訝な目で千夜子を見ている。

「……東宮の、お許しをもらっていないから」

「そんな、姫様……。東宮は無理やりに姫様をここにお連れしたのではありませんか。姫様も、東宮のお振る舞いにはあれほど憤っていらっしゃいましたのに……っ」

「うん……」

 千夜子は自分でも、自分のこの気持ちをどう表せばよいのか分からなかった。
 ただ、東宮が今朝見せた、あの寂しげな……傷ついたような、表情。
 このまま後宮を去ってしまう事は……出来ない、と千夜子は思った。

「お許しを頂いたら、すぐにも帰るわ」

「でも、姫様。……またどこかに閉じ込められでもしたら……私、手が出せませんわ」

「それは……たぶん、大丈夫。もう東宮は閉じ込めたりはしないと思うから……」

「……」

 由紀は困ったような顔で千夜子を見ていたが、やがてため息をついた。

「私は……たいてい貞観殿のお局に居ますから。何かあったら、いつでも頼って下さいましね」

「うん。……ありがと、由紀」

 由紀は少し寂しげに微笑んで、寝所を出て行った。


(どうして……なんだろう)

 千夜子はまだ自分の気持ちを整理しきれない。あれほど嫌がっていた、後宮。ここに居ることは今でもとても怖くて落ち着かない。それなのに。

(どうして……)

 このまま、逃げ出してしまうのが一番良かったはずなのに。
 すぐにも由紀を追いかけて、貞観殿へ行こうかとも、思った。それなのに足は動かず、寝台に腰掛けたまま。

 管弦の音色が遠くに聞こえる。
 夕暮れの日が、御簾を橙に染めていた。


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