秋の夕べのあやしきに 七.
ほとんど日も沈みかけた、夕刻。
戻ってきた東宮は千夜子の姿をみとめて、目を見開いた。
「お前……逃げなかったのか……?」
「……東宮は」
千夜子は寝台から立ち上がり、東宮の前に立った。
「私を帰す気は無いと、言っていたじゃないですか……」
「……だけど」
東宮の手は震えていた。震えた手を、千夜子の両の肩に置く。
「俺にはお前を、守り、切れない……。だから」
「だから……?」
千夜子は東宮を真っ直ぐに見上げる。
「退出を、許してくださるんですか……?」
「……っ」
東宮はぐいと千夜子を引き寄せると、強い力で抱きしめた。
「……許す」
許すといいながら、東宮の腕はますます強く千夜子を抱く。そのままぐいぐいと押されて、気づけば寝台の脇に居た。
「許すけど……。今は、駄目だ」
東宮の顔が目の前に迫る。
「……あ」
呟いた唇は、東宮のそれで塞がれていた。
触れ合う箇所のぬくもりに、不思議と嫌悪は沸かなかった。
「お前が、逃げなかったのが悪い……っ」
力強い腕は千夜子をすくうように抱きあげ、寝台の上に横たわらせた。そのまま東宮は千夜子に覆いかぶさるようにして、のしかかった。
あの晩。初めて後宮に連れてこられた晩の事が思い出される。あの時はただひたすら驚きと戸惑いと恐怖に、支配されていた。
しかし今は……。
「い、嫌がらないのかよっ」
どくどくと痛いほどに脈打つ鼓動はあの時と変わらない。しかしそれは何故か、あの時のように嫌なものではなく……。
「……」
千夜子が黙っていると、東宮は目を細め、もう一度顔を近づけた。
唇にあたる、唇の柔い感触。それは東宮の息遣いとともに、頬を伝い、耳元を伝い、首筋を伝う。東宮の手が、腰紐をぐいと引くのが分かった。一気にはだけた衣の合間へ差し入れられる、東宮の熱い手の平。
「……七条」
かすれた声が、耳元に届く。吐息が、熱い。
千夜子の頬は熱く、先ほどからうるさいほどに響く心臓の音は、耳鳴りのようだった。
「……東宮」
どうしてそんな事を言う気になったのか。
「私は……。私の名は……千夜子、です」
諱(いみな:本名)は、父や夫等の近しい者以外、知らせてはならないものだ。それなのに。
……名を、呼ばわって欲しかった。
東宮は一瞬驚いた顔をして目を見開き、千夜子を見つめた。やがて唇を頬に寄せ……耳に寄せて、熱い息でささやいた。
「……千夜子」
(……ああ)
呼ぶ声が、背筋をあわ立てる。
どうして。
こんな事は望んでいなかった。望んでいなかったはずなのに、どうして東宮の熱はこんなにも温かく……、それを、嬉しく思ってしまうのだろう。
強く抱きしめられる。伝わる、人肌の熱。
忙しなく押し寄せる東宮の熱い激情に、千夜子はそのまま、身をゆだねた……。
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