夢かうつつか 二.
車はすぐに七条の屋敷へ到着した。
千夜子がさらわれたときよりも、さらに手入れが行き届いているようだが……やはり自分の家に帰ってきた、と思うと安堵する。
(良かった……。もう、帰って来れないかと思った……)
狭い飾り気の無い自室だけれど、後宮の針のむしろに比べれば、ずっと良い。
千夜子は扇で顔を隠しつつ、中将を自室に案内した。
「中将様……しばらく、こちらでお待ちいただけますか? 母に挨拶をしたいので……」
言うと、中将はこころよく笑ってそこへ腰を降ろした。
「無理に付いてきたのです。どうぞお構いなく。母君に会われるのも、ひと月ぶりでしょう。積もる話もおありでしょうから、俺の事は気にしないで下さい」
千夜子は会釈して、後は由紀に任せて母の居る隣室へ向かった。
(ひと月……)
もうそんなに経ったのかと、改めて感慨を覚える。ともかく千夜子は母の無事を確かめたかった。
「……千夜子……?」
床に臥せっていた母は、千夜子の姿を見とめて身を起こそうとした。しかし上手く力が入らないのか、半身を起こすのにも苦労をしている。
「起きなくていいわ! ……母上、顔色が」
久しぶりに見た母は、ひどく憔悴し、顔色も悪かった。
「……食べ物は? きちんと食べていられたんですか?」
脇息につかまるようにしてようやく身を起こした母は、うなずいて微笑んだ。
「……今は、兵部卿の宮様のお指図で……食べ物も、お薬も、頂けています……。……千夜子、貴女のおかげね……」
「え……?」
「……宮様のお勧めで、宮中に、お仕えしていたのでしょう……?」
兵部卿の宮はそのように母に伝えていたのだ、と納得して、千夜子はうなずいた。
「それよりも……。起きないで、寝ていて下さい。ひどく辛そうだわ……っ」
母の話し方は途切れ途切れで、合間に浅い息を繰り返している。手を貸して床へ横たえると、母は首だけこちらへ向けて、それでも嬉しそうに目を和ませた。
「これまでは教養もなにもかも不足していたものを……後宮の華やかさに触れて、少し雅やかになったのではないかしら……。……本当に……宮様の深いご寵愛を頂けて……幸せね、千夜子……」
母の目には涙さえ滲んでいる。
「……」
現実とはまるでかけ離れた話に、千夜子はあいまいに微笑んで見せるしか出来ない。
母は、兵部卿の宮と千夜子の仲を信じて疑っていないのだ。
「こちらへ戻って来たのですから、いよいよ新枕かしら……?」
「母上!?」
土気色の顔をしながらも、母は楽しげに笑う。
「楽しみね、千夜子」
「……」
また、千夜子はただごまかすように笑うしかなかった。
考えてみれば、この屋敷も母も、兵部卿の宮のお世話になりっぱなしなのだ。それは東宮も頼んだと言っていた事だが、もともと宮は千夜子を口説いていたのだし、千夜子は受け入れる旨の返事もしていた。
(もし宮様が訪ねてきたら……)
受け入れるのが、筋というものだ。
もともと、東宮にさらわれる直前までは、千夜子もそのつもりだった。こうして家に戻ってきたのだから、あとは当然……。
(……考えて無かった……)
なぜだか、胸がひやりとした。
近いうちに、兵部卿の宮はきっと訪ねて来るはずだ。そうしたら夫婦の契りを交わして、宮様にはこれからも家や母のお世話をして頂かなければならなくて……。
(……私)
なぜそれを、今さら、……嫌だと思うのだろう。
一時は尼寺へ駆け込もうなどと考えた事もあったが、こうまで憔悴している母を連れて出て行く事は不可能だし、心労を与える事もしたくない。
あの受領などにくらべたら、宮は遥かに見目麗しい貴公子だ。
それで母子二人、ご飯を食べさせてもらえて、面倒をみてもらえるのなら、何も嫌なことなどないはずなのに。
胸が、ざわつく。
「千夜子……?」
母がどうしたのかと心配げなまなざしで見ている。
「……いいえ」
精一杯、微笑んだ。
「宮様の訪れが、楽しみです……」
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