夢かうつつか 三.
几帳を隔てた向こうに居る左近の中将は、伺うように千夜子のほうを見た。
「姫君、……ご気分でも、優れないのですか」
「……ああ、いえ……」
じっさい、上の空だった。
左近の中将は、千夜子がさらわれたあの晩、東宮に手を貸したことを何度も詫び、宮中で辛い思いはしなかったか、無体なことはされなかったかとしきりと聞いてきたのだが、千夜子はほとんど返答も出来なかった。
思った以上に具合の悪い母。いつあるかも分からない兵部卿の宮の訪れ。
いま千夜子の胸を占めているのはその二つが大きい。
いっときは、この左近の中将の事を、好もしく思っていたはずなのに……。
「母上の……ご容態が良くないんです……」
「……それはさぞ、心配でしょう。……そうだ、俺の知り合いに腕のいい薬師がおります。こちらへ遣わせましょう」
「まぁ……」
それは有り難い申し出ではあるのだが、千夜子には少しためらわれる。
「……あの、でも、左近の中将様は、こちらとは何の縁もありませんのに……。そこまで、して頂くわけには……」
中将は目に見えて落胆した顔をした。
「何の、縁も無いなどと……おっしゃらないで下さい。……姫。俺はまだ貴女を諦めていないのですから」
「……」
あの、晩。千夜子は確かに言ったはずだ。「私の事は、お忘れください」と。
「……やはり、ご迷惑でしょうか……?」
切なげに見つめる、真っ直ぐな瞳。千夜子は息を漏らした。
「……中将様は……右大臣家の御長男とか……」
「え? それは……そうですが」
「妹君の三の姫様は、東宮へ入内されるとも聞きました。……妹君様は家のため、ご立派にお勤めを果たされようというのに……。中将様は、ご自身の立身出世を願わないのですか……?」
「は……」
中将は、きょとんとした顔で千夜子を見ている。思ってもみない事を言われた、という表情。
「私などに構っている場合ではないはずです。……まだ、北の方をお持ちでないなら、なおさら。お早く、家柄の良い姫君を、北の方に迎えるべきですわ……」
これは、千夜子の本心だ。だからこそ千夜子はあの時……兵部卿の宮を選んだのだから。
「……姫」
中将は几帳越しの千夜子をまじまじと見つめている。
「だから、ですか……?」
「……え」
「姫は、俺の身を案じてくださっている。……だから、兵部卿の宮を選んだのですか……?」
中将の顔に喜色が浮かぶ。……しまった、と千夜子は思った。
喜ばせるために言ったわけではない。ただ、真面目に考えれば、千夜子を選ぶ事は中将の将来のためにも良くない事を、分かってほしかっただけだ。
「中将様……!」
咎めるような声を上げたが、しかし中将は嬉しそうな表情で立ち上がった。
「今日のところは、退散します。……薬師のほうは、すぐに手配しますので」
「……中将様! 私の話を聞いて下さいましたか? これ以上この家に関わっても、中将様にはなんの得も……っ」
「損得の問題ではありません。……いえ……、貴女を得るという事が、俺には最大の望みですから……。こうして、貴女とほんの少しでもつながりを得られることが、俺には得なのですよ」
「中将様……!」
聞き分けの無いことを言う。
しかし中将はどこまでも嬉しげな、爽やかな笑みを残して、去っていった。
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