夢かうつつか 四.


 左近の中将は、本当にいい人だ、と思う。
 真面目で、爽やかで……その男らしい立ち居振る舞いも、千夜子は本当に好もしいと思う……思って、いたのだ。

(……なんで)

 千夜子はふと胸を押さえた。まただ。また、胸がひやりとざわつく。
 ……たった一度、情を通じただけ。忘れなければならない。雲の上で起きたことは、忘れなければならないと思うのに……。まな裏をよぎる、その面影。

(……東宮)

 うとましいと、本気で思っていた。それは嘘ではなかったはずなのに、どうして。
 もう千夜子は地上へ帰ってきた。忘れなければと思うのに、その面影は勝手に脳裏をちらついて……苦しい。ただ、苦しかった。

「姫様……」

「あ……」

 遠慮がちに声をかけてきたのは、由紀だった。

「どうされました、御方様のお身体は、そんなに悪いんですの?」

「ああ、うん……」

 母の具合は、本当に悪いのだ。
 一刻も早く、母を安心させなければならない。

「私、今日からは母上と同じ部屋に寝ることにするわ。……本当に、悪いみたいなの。それと……兵部卿の宮様は……いつ、いらっしゃるかしら」

「姫様が今日こちらへ戻ったことはすでに知らせてあります。数日中にはきっと、いらっしゃいますわ」

「……そう。それじゃあきっと……母上も、安心するわね……」

 兵部卿の宮が訪ねてきたら、その時は、ちゃんと彼を受け入れよう。
 胸がざわついて止まらないのは、きっと、東宮と情を通じたせいだ。……早く。早く、兵部卿の宮とも供寝してしまえば、この胸のざわめきは収まるはず。
 千夜子はそう覚悟して、心を決めた。

「姫様。……なんだか、元気がありませんわ。御方様が心配なのは分かります。でも、それだけじゃないみたい……。後宮ではひと月も閉じ込められていたのですから、無理ないことかもしれませんけど……。なんだか他にも……お悩みですか?」

「……」

 千夜子には、今の複雑な思いを、説明するのが難しかった。

「東宮を、懐かしく思ってらっしゃる?」

「え……っ」

「ひと月も……それはちょっと強引なご寵愛の仕方ではありましたけど……ご寵愛を受けていらしたんですもの。懐かしく思ったとしても、不思議はありませんわ」

「……ううん」

 千夜子は首を振った。そんな事を思っても、仕方の無いことだ。東宮は東宮であり、もともと、千夜子とは住む世界の違う人なのだ。あれほど解放して欲しいと願い、ようやく、許された。
 苦しいのは、きっと今だけ。ほんの、少しの間の事だ。

「私は、兵部卿の宮様の愛人になるんだから。東宮の事なんて、もう忘れたわ。これで何もかも、もと通りよ。すっきりしたわ」

 微笑んで見せると、由紀は少しがっかりしたように、肩を落とした。

「姫様……。あんまり、無理はしないで下さいましね。そりゃあ、御方様は兵部卿の宮様をお気に召していますけど……。じっさい結婚なさるのは、姫様なんですから。東宮はまぁ……無理だとしても、左近の中将様だって。姫様、左近の中将様の事はどうお思いですの?」

 先ほどもちらと考えた。左近の中将の事を思う。

「そうね、素敵だと思う。好きだと、思うわ……。でもね、だから……悪いわ。真面目すぎるのよ。こんな落ちぶれた宮家の姫を……北の方になんて、しちゃ駄目に決まってるのに」

 由紀は天を仰ぐようなしぐさでため息を漏らした。

「もう……。本当に、欲が無くていらっしゃるんだから。もっと、ご自分の事を考えたらいいのに、と由紀は思いますわ」

「自分の事……?」

「そうです! もっとご自分の気持ちに正直に、一番ご自分が幸福になる道を探したらいいんですわ! 人生は一度きりですのよ!? こんな幸運に恵まれて、棒に振ろうなんて、由紀には信じられませんわ」

「でも……兵部卿の宮様だって……素敵だし……。別に、不満なんて……」

「浮気な方ですわ。苦労は目に見えてます」

 由紀はきっぱりと言い切った。

「……正直に申し上げますけど」

 由紀は少し視線をそらして、ためらうように口元を覆った。

「実は私も……、宮とは……何度か」

「……え」

 すぐには言われた意味が飲み込めず、千夜子は目をまたたかせた。

「……そう……なの?」

「……私だけじゃありませんわ。後宮の女房の中には……他にもたくさんいらっしゃいます。それに加えて、あちらこちらの姫君……。わ、私だって、もちろん本気じゃありませんけど。……お勧めは出来ませんわ」

「……そう……なんだ……」

 噂には聞いて知っていたけれど。改めて、目の前の由紀も……と聞かされると、さすがに動揺は隠し切れない。
 千夜子は我知らず、重いため息を漏らしていた。


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