夢かうつつか 五.


 兵部卿の宮が訪ねて来たのは、明くる日の夜遅くだった。

「――ちはやぶる 賀茂のやしろの ゆふだすき ひと日も君を かけぬ日はなし……
(賀茂の社で毎日かけられる木綿たすきのように、貴女を想わない日は一日もありません)」

 そんな歌を口ずさみながら、優雅な物腰で会釈して、簀子縁に腰掛けた。

「宮様……」

 御簾を隔てた千夜子に向けて、優美な笑みを浮かべる。その立ち居振る舞いの全てが、本当に、なんて優雅な宮様なんだろう、と千夜子はつくづく思う。これでは浮名を流すのもうなずけるし、数多くの愛人が居ても仕方が無いことだ。

「後宮では、なんでもボヤ騒ぎに巻き込まれたとか……。大事ありませんでしたか?」

「はい、あの……。……東宮に、助けて頂いて」

 兵部卿の宮は口元に扇をあてて、おや、と眉を上げた。

「なるほど。東宮におかれては随分と貴女をお気に召していらしたご様子ですね。……一度は私の元へとまってくれた貴女の御心が、東宮へ移っていないと良いのですが……」

 そう言って、流し目を送られ、千夜子は戸惑ってしまう。

「ええと……そ、それは……。お、恐れ多いことですので」

 ふっとまた優美に微笑んで、兵部卿の宮は身を乗り出した。

「では……私を、御簾の内へ入れて下さいますか?」

 千夜子は思わず息を呑む。
 兵部卿の宮が訪ねてきたら、受け入れようと、そう、覚悟していたはずだ。

(もう、決めたんだから)

 少しの逡巡の後、千夜子はうなずいて立ち上がった。

 御簾を捲り上げようとしたところで、

「兵部卿の宮!」

 呼ぶ、男の声がした。

「……おや、左近の中将」

 兵部卿の宮は浮かしかけた腰を降ろした。

「奇遇ですね。こちらには、何の御用でしょう? ……愚問かもしれませんが」

「……っ、お、俺は……その」

 兵部卿の宮はくすりと笑みを浮かべた。

「まだ、諦めてはいない……と。……私は貴方との賭けに勝ったつもりでいたのですがねぇ」

 顔を赤らめて立ち尽くしている中将に対して、兵部卿の宮は何処までも落ち着いた様子である。

「……あ、あの賭けは……っ、東宮に、阻まれましたので……っ」

「そうでしたか? それならば仕方ありませんが。今、姫君は御簾を上げて下さるところだったのですよ」

 ねぇ、と視線を送られて、千夜子はただ、たじろぐしか出来ない。いくら兵部卿の宮を受け入れる覚悟を決めていたとはいえ、好意を寄せてくれている左近の中将の面前で、兵部卿の宮を引き入れるのは、ためらわれた。

「まぁ……今日のところは諦めましょう。貴方も、こちらへお座りになるといい」

 憮然とした表情で左近の中将はやってきて、兵部卿の宮の隣、簀子縁に腰掛けた。中将はぎゅっと眉根を寄せて唇をかみ締めている。

「……」

 憮然とした表情を隠そうともせず、沈黙したままの中将を、兵部卿の宮はただ黙って……どこか楽しげに、見つめている。
 重苦しい、沈黙。
 千夜子は御簾のうちに座りなおして、気まずい空気をどうしたら良いものかと途方にくれた。

「笛を」

 唐突に兵部卿の宮が言って、立ち上がった。

「お持ちですか? 中将」

「え? あ、はぁ……」

 きょとんとしながらも、中将は懐から龍笛を取り出した。

「一曲、舞わせて頂きましょう。姫君にもご堪能頂ければ幸いです。……中将」

 兵部卿の宮が扇をかざす。すると、了解したのか中将はうなずいて、笛を口元にあて、奏で始めた。

 笛の音は夜虫の声に相まって、一層優美な風情を醸し出し、月明かりに浮かぶ兵部卿の宮の舞姿は、いっそ妖艶にさえ見えた――。


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