夢かうつつか 六.


 それから二日ほどは兵部卿の宮が訪ねてくることも無く、千夜子は母の隣に枕を並べていた。
 母が声をかけてきたのは、深夜の事だ。

「千夜子……」

「何ですか、母上」

 苦しいのだろうかと慌てて母の様子を伺う。

「ああ……、夢を……見れて……嬉しかったわ……」

 息遣いがひどく苦しげで、千夜子は慌てて身を起こし、燭台に灯りをともした。
 母は額にびっしりと汗をかいていた。

「母上!?」

 血の気がひく思いで、立ち上がる。

「待っていて、すぐ、水と薬を持ってきますから……っ」

 ばたばたと簀子を走り、台盤所へ。今は下女が使っているが、もともとは千夜子がひとりで使っていた勝手知ったる我が家の台盤所だ。
 汲んだ水を盥へ入れて、布を浸してしぼる。母の枕辺に取って返し、母の額の汗を拭いた。煎じて淹れた薬湯を、口元に勧める。

「お薬湯です、飲んでください……」

 ほんの少し口をつけただけで、母はむせて飲めないようだった。

(どうしよう……っ)

 母は、千夜子にとってたった一人の肉親なのだ。いろいろと口うるさいところもある人だが、いままでたった二人暮らしてきた、誰にも代えがたい大切な人。
 これまでも病弱な人であったが、ここまでの憔悴ぶりは、見たことが無い。

「母上っ、しっかりしてくださいっ」

 涙が出そうなのを堪えて、なんとか薬湯を飲ませようと努力していると、母は微笑んだ。

「千夜子……。宮、様の事……貴女は……、どう、考えて、いて……?」

「ああ、あんまりしゃべらないで……! 宮様ですか……っ!?」

 母は苦しげな中にも微笑んで千夜子を見つめている。

「ああ……えーと、……美しくって、とっても素敵な殿方ですわ……っ」

「……好き……かしら……?」

「ええ……っ!?」

 こんな時に何をのんきな事を言っているのだろう。

「わ、私は……」

 しかし「好きか」と問われて、千夜子にはすぐに答える事が出来ない。母の目元は微笑んでいた。

「いい……夢、を、見れました……。……いい、わ……。もう……あなた、の、好きに……、して、……」

 かくりと首が垂れて、母の目が閉じられた。
 千夜子は信じられない思いで母の身体を揺する。

「嘘、嘘でしょ!? 母上、嫌だ……っ」

 母の口元に耳を寄せると、まだ、息がある。しかしそれは、あまりにか細い。

「あ、あ……っ」

 その時、『腕の良い薬師がいます』と、左近の中将の言葉が思い出された。
 簀子縁に飛び出して、「誰かっ! 誰か来てっ!」と叫ぶ。寝静まった屋敷の奥から、下男の男がやってきた。

「どうされました」

「貴方、左近の中将様の……右大臣様のお邸は知ってる!?」

「はぁ、私はもともと左近の中将様に仕えてた者ですので」

 この家の面倒はもう全て兵部卿の宮が見ているのかと思っていたが、まだ左近の中将の従者も残っていたのだ。
 千夜子はぱっと顔を顔を輝かせた。

「お願い、中将様のところに行って……! ううん、私が行くわ! 連れて行って!」

 その従者は目を白黒させた。

「行くっていっても、……この家には車も馬もありません。徒歩になりますけど……」

「あるわよ! 先日貸して頂いた、兵部卿の宮様の牛車がまだあるわ!」

「あ、あぁ……」

「早く! 一刻を争うの! 早く車を回して来てっ」

 千夜子はすぐにも簀子縁を降りて駆けて行きたい思いだった。


 車が壊れそうなほどの勢いで牛車を走らせ、右大臣邸へ向かった。
 知らせを聞いた左近の中将の対応は機敏だった。
 すでに右大臣邸に呼び寄せていたという薬師を従者の馬に乗せ、自身の馬には千夜子を乗せて、すぐさま七条へと向かったのだ。

 馬上では、左近の中将に後ろから抱えられるような形になったが、千夜子は気に留めていられなかった。

(母上……!)

 どうか。お願いだから、助けて欲しい。


 七条の屋敷に戻り着いたのは、夜が白み始めた頃だ。

「母上……!」

 枕辺で下女が母の額を拭いてくれていた。……まだ、息がある。

 すぐに薬師が母の側へ寄り、診察を始めた。
 脈を取り、呼気を確かめる。唐渡りの塗薬とやらを首筋から胸のあたりに塗り、口に薬湯を流し込んだ。

「どうですか……? 母上は……っ!?」

 薬師は神妙な顔で首を振った。

「手は尽くしましたが……。意識が、戻られるかは……」

「そんな……っ」

 思わずへなへなと座り込んだ肩に、やんわりと乗せられる手がある。振り返ると、左近の中将だった。

「姫、お気を確かに。きっと母君は助かりますとも。……加持祈祷の僧都の手配もしています。今は一緒に祈りましょう。この俺も、及ばずながら祈ります」

「中将様……っ」

 ぐっと涙が込み上げる。ひどく不安な心に、優しげな言葉が沁みた。まともに顔を見られているという事実さえ忘れ、千夜子は何度もうなずいて、すがるように中将の手を握った。


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