夢かうつつか 七.


 翌日は朝から、左近の中将によって手配された僧都の読経が響いていた。
 昼近くになり、母の枕辺で、千夜子が少しうとうととした時だ。

「千夜子……」

 呼ぶ声にはっとして母をみると、微かに目が開き、千夜子を見上げている。

「あぁ、母上! お気が付かれましたか! 良かった……っ」

 何か言おうとしているのか、母の口元が動く。千夜子は慌てて母の口元に耳を寄せた。

「貴女は……どうか……幸せに、ね。……それだけ……私の、願い……です……」

「私はずっと幸せよ? たとえ貧しくっても、二人で生きていられたら、幸せよ……! ですから、母上、どうかしっかり……」

 母は微笑んで、目を閉じた。
 それが、最期の笑みだった。

 母の目が開くことは、二度と無かった――。


 回復を祈る読経が、死者を弔う読経へと変わっていた。
 千夜子はただ呆然と座り込み、その読経を聞いていた。

 ただ呆けて座っている間に、左近の中将が、全てを取り仕切ってくれていた。
 そうして、気づけば傍らで、慰めるように千夜子の手を握ってくれていた。

「中将様……、ご迷惑を、お掛けして……」

 言うと、優しげな表情で、中将は千夜子を見下ろす。

「……少しは、落ち着かれましたか?」

 千夜子は黙ってうなずいた。もう、この公達に顔を見られることには慣れてしまった。
 ずっと泣き通しの、ひどい顔をしている。その頬を、中将は袖でぬぐってくれた。

「今夜は……いえ、これからしばらくは、俺がこちらへ宿直をしましょう。……姫のそのご様子では、とても心もとない」

「……でも」

 そこまでしてもらう訳にはいかない。……もともと、中将はこの家と、何のかかわりも無いのだ。

「何もお気を使うことはない。落ち着くまで、側に居りますよ」

「でも」

「誓って、無礼な振る舞いはいたしません。……ただ、このままでは貴女が心配なのです。せめて、お側に」

「……」

 千夜子は返答も出来ず、顔をそらした。
 実際、誰かが……この優しい中将が側にいてくれることは、千夜子にとって大きな慰めになった。


 その晩。千夜子は寝付けずに涙に暮れていた。

(人の世はなんて儚いんだろう……)

 もともと病弱な人ではあった。だからと言って、本当に身罷ってしまわれるなど、考えたことも無かった。母子二人で、ずっと生きようと思っていたし……だからこそ、生きる手段を懸命に考えもしたのだ。

(もう、どうやって生きたらいいかなんて、分かんないよ……)

 もう、どうでも良い。
 ただ悲しい。悲しくて悲しくて、消えてしまいたい。
 ぼろぼろと溢れる涙は止まる気配も無く、雫を含んだ千夜子の髪がすっかり重たくなった頃、笛の音が、聴こえてきた。

(……?)

 それは近い位置……隣室から、聞こえてくる。左近の中将の奏でる笛の音だ。

(中将様……)

 その音色は中将の人柄と同じくひどく優しくて……それを聴いているうちに、不思議と心は落ち着いて、千夜子はようやく、眠りに付くことが出来た。


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