夢かうつつか 九.
『有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし
(明け方の空に浮かぶ月のように冷たい別れをしてからというもの、夜明け前の暁の時間ほど、嫌なものはない)
何も告げずに去るなんて、俺は許して無かった。
今さら何を言っても遅いのかもしれないが。
母君の事は、遺憾に思う。
あまり泣くなよ。想像するだけで胸が痛む。
本当は側に置いて、慰めてやりたいところだ。
側に置いて、退出など許さなければ良かった。
叶うなら、もう一度、来て欲しい。
側に、居て欲しい。 東宮 兼平』
千夜子は文を掻き抱いた。緩んだ涙腺に自然と雫が浮かぶのを、慌てて擦る。
母が亡くなったばかりだというのに、何と身勝手なことを書いてよこすのか。
(本当に、わがままななんだから……)
それなのに何故、胸が温かくなるのだろう。
あの尊大な態度が懐かしく、温い鎖で締め付けられたように胸が痛む。
まるで東宮が側にいて、慰めてくれているような、錯覚に陥った。
すべては雲の上、夢の中の出来事だったと、割り切ったはずなのに。
(東宮……)
最後の寝顔を思い出す。胸に広がるのは、ひどく甘やかな痛みだ。
「姫君……?」
左近の中将の声に我にかえり、慌てて料紙をたたんで袂にしまった。
「……すみません、なんでも」
目元をこすり、微笑んでごまかす。兵部卿の宮が興味深げに千夜子を見て問うた。
「東宮は何と書いていらっしゃいます?」
「……え。あの……母の、お悔やみを……」
すると兵部卿の宮は杓を口元にあてて、ふっと笑んだ。
「……言いにくい事柄でも書いてありましたでしょうか。実は……最近の東宮はひどく塞ぎこまれましてね。七条殿が後宮を去ってからの事です。まるで……桐壺女御を亡くされた時のように元気をなくしてしまわれた。……それほどに、塗篭の姫君にはご寵愛が深かったのかと、近親の者は驚いているのですよ」
「……」
千夜子には答えることが出来ない。
「右大臣殿もお悩みのご様子です。あれでは三の君殿の女御入内の話もまとまらないと」
「……そう、ですか……」
東宮はわがままな人だ。千夜子は自分が気に入られていたことは自覚している。今はきっと、気に入りの遊具がなくなったからふて腐れているようなものなのだろう。
「きっと、一時の事ですわ。すぐに……お忘れになりますわ。……私ももう、雲の上で起きたことは、忘れました……。東宮にも、そう、お伝えくださいますか……?」
兵部卿の宮は微笑んでうなずいた。
「すぐにお忘れになるとは思えませんが……。ご伝言は、たしかに承りました。それにしても……これでは私も、こちらへは通いにくくなりましたね。これほどまでに東宮の寵を得られた姫君とあっては。……それに、左近の中将殿までこうして見張っておられる」
「俺は……っ、べ、別に見張っているわけじゃありません。ただ、少しでも姫君のお慰めになればと思って……」
「……東宮に知れたら、少々まずい事になるかもしれませんよ?」
「俺は、東宮の勘気をこうむっても構わないと思っています……っ。もう、あの晩のような……後悔はしたくないっ」
左近の中将はひどく真剣な面持ちで、兵部卿の宮を睨みすえた。
あの晩。それはおそらく、千夜子がさらわれた夜の事に違いない。あの時、東宮の手助けをした事を、左近の中将はひどく後悔しているようだった。
兵部卿宮は穏やかに笑って、「まぁまぁ」と左近の中将をなだめた。
「告げ口はしませんよ。しかし、こういった事はいずれ何処かから耳に入ることです。毎夜、こちらに宿直しているのでは、事実、お二人は婚姻されたと思われても仕方の無いことです。……それだけのお覚悟はおありですか?」
「覚悟はあります」
きっぱりと。左近の中将は言い切った。
しかし千夜子は兵部卿の宮の台詞に、血の気が引く。だがよく考えてみれば、それはすぐに分かることだ。普通、続けて三日、男が女の家に通えば、それは婚姻したものとされる。
たとえそこに男女の契りが無かったとしても、世間はそうは見ないだろう。
(そんな……)
思ってもみなかった事実に、千夜子は愕然として左近の中将の横顔を見あげた。
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