夢かうつつか 十.
その翌日も、夕刻になると何食わぬ顔で左近の中将はやってきた。しかし千夜子は兵部卿の宮に言われた事実が気にかかり、それまでのように中将を迎えることは出来なかった。
「中将様……。あの、遅くなる前にお帰りください」
「どうしてです」
左近の中将はまるで自分の家に帰ってきたかのような気安さでくつろいでいる。
「こんな事が世間に知れたら……中将様の名誉に関わります」
中将は千夜子の言葉を爽やかに笑い飛ばす。
「名誉も何も。俺は……東宮の勘気に触れて、官位を無くす事さえ、覚悟の上でここへ来ているんですよ?」
「……っ。そんな」
笑い事ではない。善意の中将が、そのような目にあって良い訳が無いのに。
「お願いだから、帰ってくださいっ。私のせいでそんなことになるなんて、そんなの……っ」
「姫」
左近の中将はふと声を落とし、ひどく真面目な表情で千夜子を見た。
「俺は……姫をお慰めするために、ここに居ると言いました。それは嘘ではありませんが……それだけではない。……俺には、下心があるのです。今もまだ、俺は姫を諦めていない」
一瞬。射抜くような視線が恐ろしく感じ、千夜子は思わず身をすくめた。
「……ですから、姫のせいではない。もし咎められるなら、それは俺のせいなんです」
「……そんなの……」
千夜子は言い返す言葉も失い、ほとほと困り果てた。そのまま立ち上がって中将を残し、奥の間に身を隠すようにして引っ込む。
このままで良い訳が無い。世間の噂になってしまう前に、中将の訪れを止めさせなければ。
翌日から千夜子は、妻戸の掛け金を下ろし、中将を屋敷の中へ入れないようにした。声をかけられても、決して返事をせず、ただじっと中将の帰るのを待つ。
こうして口も利かずにいれば、いつかきっと千夜子を見限って、訪れはなくなるだろうと、そう思ったのだった。
しかし中将は翌日も、その翌日も。絶えることなく千夜子の元を訪れた。
千夜子が返事を返さなくても、ただ、笛の音を聴かせるためだけに。
毎夜、簀子縁から聴こえる笛の音は止まず、十日余りも経ったころ、ついに中将は千夜子の寝室の妻戸を叩いた。
「妻戸を……開けてはくれませんか?」
「……」
塗篭に居たころは、千夜子は閉じ込められていた。今度は逆で、千夜子は自分から部屋に閉じこもっている。
用意される食事すら、それは左近の中将が用意させているものなのだと思うと心苦しく、喉を通らなくなっていた。
「せめて、お声をきかせて下さい……」
「……」
千夜子はばさりと衾を頭からかぶり、中将の声を聞かないように努力した。しかし余計に耳は研ぎ澄まされてしまうのか、重たげな中将のため息さえも拾ってしまう。
「秋風の 身に寒ければ つれもなき 人をぞたのむ 暮るる夜ごとに……
(秋風の身に沁みる寒い夜ですが、毎夜、つれない貴女でも、頼みにしています)
……今日のところは、これで帰ります。また、明日……」
中将の足音は遠ざかっていく。
(ごめんなさい、中将様……)
千夜子は呟いて、衾に包まった。
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