君恋ふる 二.


 断ることは、出来たはずだった。
 中将は決意していたのだ。もう二度と……たとえ東宮の勘気をこうむり、官位を剥奪され、都を追われることになっても構わない。……姫を東宮に渡すことは、もう絶対に、しないと。
 それなのに。

 東宮はひどく切羽詰った……切なげな表情をしていた。このまま会わせないと言えば、病になってしまうのではないかと思われるほど、憔悴していた。
 それは、中将にも身に覚えがある……恋わずらいだ。
 ここまで東宮が、七条の姫君に恋をしているとは、思っていなかった。ただの気まぐれで後宮へさらっていき、もてあそぶために侍らせた。ただそれだけの事だと、思っていたのに。

 牛車に揺られる間も、東宮はずっと膝を抱えていた。

「東宮……。姫君は、お会いにはなりませんよ」

「……ああ」

「……垣間見できるかも、分かりません。近頃は屋敷の奥深くに閉じこもっていますから」

「……それでも、いい。近くにいければ」

 普段の東宮からはおよそ想像もつかない、あまりに殊勝な様子にほだされたのか、兵部卿の宮が提案した。

「私が、姫君を端近まではお呼びしましょう。今夜は幸い、月の美しい晩です。下心の無いことを説いて誘えば、きっと出ていらっしゃる」

 東宮ははっと顔をあげて兵部卿の宮を見た。

「……頼む」

 中将の胸はずきりと痛んだ。こんなにも東宮は……姫君を想っているのか。

「ただし」

 兵部卿の宮は杓を口元にあてて、済ました顔で続ける。

「七条殿を思うのは、今日を限りにして頂きます。……東宮には、他の女御を迎えることを、そろそろ真剣に考えていただかなければ。右大臣殿も、そろそろ痺れを切らす頃です。……私も、東宮を口説けと責められていますので」

 これには東宮は答えなかった。しばらく黙った後、顔を伏せたままでため息のように漏らす。

「……今は、考えられない……。待ってくれ……」

 辛そうな声は、耳に痛い。
 姫を渡す気は、中将には無い。しかしあまりに痛々しい東宮の様子に、中将の胸はひどく痛んだ。


 七条の屋敷へ到着すると、兵部卿の宮は姫の居る部屋のほうへ向かった。左近の中将は東宮と一緒に庭木の影に身を隠した。
 なにやらやり取りをして……しばらくすると、姫が御簾の向こう側、庇まで出てきて座るのが見えた。
 兵部卿の宮は簀子縁に座って姫と何事か語らっている。

 中将自身も、御簾ごしにも姫の姿を見るのは久しぶりだ。ここ最近、姫君はずっと奥の間に隠れて、姿をあらわさなかったから。
 御簾に映る姿さえ愛おしく思え、兵部卿の宮につい嫉妬の念がわく。この木陰から出て、姿を見せてしまいたくなる。
 隣の東宮を見ると、じっと御簾を凝視して……

「……っ」

 一歩、足を踏み出した。中将は慌てて、その袖を捉えた。

「……東宮。……垣間見だけと、お約束です……っ」

 声を抑えながら、それでも強い口調で言う。東宮は振り返ると左近の中将を睨んだ。

「……俺は、ここに、居るのに……」

 今にも泣き出しそうな顔だ。

「なんで。思い通りにならない……っ」

 握り締められた拳が震えていた。

「中将。お前は……七条を、幸せに……するのかよ……っ」

 真摯な表情で問われ、中将は真摯に答える。

「……はい。この身に代えても」

 東宮の目から、雫が落ちた。ぱたぱたと落ちるのを、東宮は慌ててぬぐう。

「お前が……憎い。俺はお前と変わりたい……」

 しゃがみこんで、顔をぬぐっている。それからまた顔を上げ、御簾をじっと見つめた。

「……っ」

 こんな風に自分を殺す東宮を、見たことがあったろうか。以前ならば、力ずくでも姫君を連れ去り、無理やり側へ置いていただろう。
 それが今は、姫の幸せを願い……それゆえに、自分を殺している。
 
 恋は、これほどまでに人を変えるのだ。

「嫌だ……っ。本当に嫌なんだ……。だけど」

 涙で声を詰まらせながら、東宮は言った。

「……お前に任せるしか、ないんだな……」

 東宮の手が、左近の中将の袍の裾をひしと掴んだ。掴んだ手は震えていた。


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