君恋ふる 三.
千夜子は狼狽していた。
その晩は、久しぶりに兵部卿の宮の訪れがあった。宮は他愛も無い会話をしてすぐに帰っていったが、それから少しして、いつものように左近の中将が訪ねてきた。千夜子はその日も、左近の中将を屋敷には入れないつもりで、妻戸を硬く閉ざしていた。
しかしその晩の左近の中将は、いつにも増して強行に、千夜子に迫ったのだ。
どんどんと強く扉を叩かれて、ついに千夜子は返事を返した。
「もう……お帰りください」
「いいえ。……もう世間は俺の事を貴女の夫と思っているのですよ。こうもつれない振る舞いは、分別が無いものとお思い下さい」
「そんな……! わ、私はお屋敷のお世話も……下男下女もみんな、要りませんっ。私の事は、放っておいてくださいっ」
「聞き分けのない事を言わないで……妻戸を、開けてください」
一体、どうしたというのだろうか。今日の中将には、常よりも余裕が無いように思われる。
「嫌です……。わ、私はまだ母を亡くしたばかりで他の事なんて考えられないのに……なのに、どうして中将様は、そんなに強引な事を言うんですかっ」
「……俺は、東宮にもお許しを頂いたのですよ」
「……え」
ひやり、千夜子の胸につめたいものが過ぎった。
「……東宮、に……?」
「そうです」
「そんな……」
「姫君の事を、よろしく頼むと、仰せでした」
「……」
あの、東宮が。『側に居てほしい』と、そう書いて寄越した東宮が、千夜子を左近の中将に頼むと、言った……?
胸がつめたい。
何か考えようとして、上手く考えられなかった。
「姫……どうか、妻戸を開けて」
うながされる。
「開けなさい」
強くうながす声に逆らえず、千夜子は妻戸にかけた掛け金を、ついに外した。妻戸を押し開くと、中将の、驚いた顔が目に映る。
「姫君……」
「中将様……」
驚いた顔はすぐに優しげな笑みに変わって、千夜子を見下ろす。
この中将と結ばれるのは、きっと幸せなことだろう。一生、大事に大切に、守ってくれるとそう言った。……東宮も、お認めになった、それは幸せな……。
中将の腕が伸びて、千夜子をそっと抱き寄せた。まるで壊れ物を扱うかのように、大事に、優しく、包まれる。中将の腕の中。
「姫君……」
呼ばれて見上げると、熱のこもった視線が千夜子を真っ直ぐに見つめていた。
……熱い、瞳。
それは一瞬、雲の上で見た面影に重なって……。
「大切にします。生涯、かけて」
真摯な表情が、ゆっくりと、千夜子に近づいてくる。
――唇が、ゆっくりと千夜子のそれに重ねられて……。
触れ合う箇所のぬくもりは、ひどく、優しいけれど。
(――違う……っ)
腕を伸ばし、中将を突っぱねた。
そっと優しく千夜子を抱いていた中将の腕は、いとも簡単に千夜子を解放した。
「……っ。……姫」
驚愕した、中将の顔。
千夜子はたまらず、膝を折った。手を床に着き、額を擦るようにして平伏する。
「ごめんなさい、中将様……。お願いです、今夜は、どうか、お引取りを……っ」
「……」
平伏したままでいると、やがて中将も膝を折り、千夜子の耳元に顔を寄せ、重いため息を落とした。
「……では、明日は……。迎え入れてくれますか……?」
どこまでも優しい、中将の声音。
(……!)
今は考えが、まとまらない。まとまらないまま、千夜子はただ……うなずいた。
「では……。また、明日」
中将は立ち上がり、何度も振り返りながら、肩を落として去って行く。
(ああ……)
千夜子はもう一度深く頭を垂れた。
「……ごめんなさい……」
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