君恋ふる 四.
梨壺に届いたその知らせは、東宮を愕然とさせるものだった。――七条の屋敷に、姫君の姿が見えない――と。
折りしも、千夜子の姿をひとめ垣間見ようと、東宮が七条の屋敷を訪ねた翌日の事である。
朝議を終えた東宮の元に現われたのは、重くるしい表情の左近の中将と兵部卿の宮だった。
「……どういう……事だよ……っ!」
東宮は思わず腰を浮かせて、目の前に伏している左近の中将に詰め寄る。御簾越しに千夜子の姿を確認したのは、昨晩の事だ。あの時、たしかに千夜子は屋敷にいた。
「東宮、落ち着かれて……!」
兵部卿の宮は東宮の側に控えて諌めるが、東宮はとても落ち着いてなど居られなかった。
「居ないだと……っ!?」
「……今朝早く、七条の屋敷に仕えさせている家人より、連絡がありました。……姫君のお姿が見えないと……」
どうして。
千夜子の身については、この左近の中将に任せた。それは東宮にとっては断腸の思いで、この誠実な男に任たはずだったのに。
「お前……っ! あいつに何かしたのか!」
かっと頭に血が上り、東宮は平伏している左近の中将の肩を掴んで押し上げた。
「なんで姿を消すんだよっ!」
「……それは」
左近の中将はぐっと言葉につまり……、やがて、辛そうに吐き出した。
「……私の事を、厭われての事でしょう」
「……は? どういうことだよ……」
千夜子の母親が亡くなってからこちら、左近の中将はずっと七条の屋敷に通っていたはずだ。千夜子は左近の中将を、とうに受け入れていたはず。それを、いまさらになって厭うというのは、どういう事か。
「東宮……。私は、姫と情を通じたことは無いのです……一度も」
「何……?」
「……私は、姫の母君が亡くなられた当初こそ、屋敷の中へ入れていただき、宿直をしてはいましたが……。近頃は、屋敷の中へ入れて頂く事すら、なかったのです……っ」
左近の中将は青ざめた顔で吐き出した。
愕然として、東宮は左近の中将の肩にかけた手を離す。
「昨晩、私は姫に強く迫りました。私を部屋の中へ入れるようにと。……姫はそれを、厭われたのです……」
苦しげに告白する左近の中将を、呆然と見やった。
(……千夜子……)
千夜子はその名を東宮に、教えてくれた。名を教え、その身を東宮に、ゆだねた。
あの夕べ。まるで夢の中の出来事のようだった、あの、夕べ。
千夜子は何を思っていたのか。
千夜子は……あれはきっと……ただの気まぐれなどではなかったのだ。……なぜ、手放してしまったのだろう、なぜ。
「……っ」
手放さなければ良かった。
千夜子がどんなに辛い目にあおうが……手放さなさなければ、良かった。
ふらりと部屋を出ようとして、兵部卿の宮に呼び止められる。
「どちらへ行かれます!?」
「……探す」
「何を馬鹿なことをおっしゃる……! 夜中に忍び歩きをするのとは訳がちがうのですよ。私も左近の中将も、既に人をやって探させています。東宮は落ち着かれて……」
「じっとしてられるかよ……っ!」
今すぐ、会いたい。
後の事などどうなってもいい。全て後で考えれば良い事だ。
ただ会いたい。……会ったら二度と、手放さない。
「東宮が、軽々しく内裏を出るなど、できないことはお分かりでしょう……っ?」
「会いたいんだっ」
「……東宮」
東宮にも、分かっている。ふらりと内裏を出ていけるほど、自分の身が軽くはない事を。
すとんとその場にしゃがみこみ、頭を抱えた。
「……探してくれ。頼む」
左近の中将は深く平伏すると、立ち上がった。
「かならずや、探し出します。……見つかりましたら真っ先に、東宮にご報告を」
「頼んだぞ……」
どうして自分は、動けないのだろう。
東宮は去っていく左近の中将の後姿を、ただ妬ましく見つめた。
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